事件

豊臣家を滅ぼしたのは朝鮮人の怨念だった!

NHK大河ドラマ「真田丸」が好評だ。その「真田丸」は、大坂冬の陣で大阪城の弱点である南の城壁のところに、真田幸村が作った出丸であり、伊達政宗の軍隊などを打ち破った場所である。現在、JR鶴橋の北側にある真田公園がその跡地といわれている。

さて、大坂冬の陣・夏の陣で天下を統一した豊臣家が滅びるのであるが、それが「朝鮮人の陰謀」であったことを知る人は少ない。




豊臣秀吉は、日本を統一した後、日本に失礼なものを討伐することになる。対馬の漁民を虐げた朝鮮人を抑えるように、当時の明に申入れをしたところ、そこに失礼な態度を取り、書面で日本の天皇を粗略にしたことで、朝鮮出兵を決意する。特に慶長の役は、文禄の役の和睦の使者が「日本国王」と秀吉を称したことによって再度戦争を行うことになったのだ。

その戦争は苛烈を究めた。当時の戦争は、首を取ることで自分の功績を伝えるのであるが、朝鮮から首を運べないために、耳や鼻を削ぎ落し、それを塩の樽にいれて送り届けたのである。

その「耳や鼻」は、現在の京都市の方広寺の横「耳塚」に葬られている。秀吉は日本に失礼な朝鮮を討伐し、それでも犠牲になった兵士たちの耳や鼻を供養するために塚まで作って弔っていたのだ。

しかし、朝鮮人はそのようなことはわからないし、なかなか理解しない。そもそも「日本が急に攻めてきた」と自分たちには非がないかのように宣伝する。今も昔もその国民性は変わらない。そしてその耳が「祟る」のである。

耳塚で供養祭を行った後、豊臣秀吉は体調の不調を訴える。その後醍醐の花見などを行うが、それでも、体調がすぐれず亡くなってしまう。そのあとを受けた豊臣秀頼は、耳塚の隣にある方広寺の鐘の「国家安康 君臣豊楽」と書いた銘が家康を呪うものといわれ、大坂の陣が始まり、大坂夏の陣で滅ぼされてしまう。まさに「言いがかり」的な内容であり、方広寺をきっかけに豊臣家が滅びるなどと当時は誰も思わなかった。今行けばわかるが、方広寺の鐘と耳塚はすぐ近くであり、その耳塚の祟りを受けて、豊臣家は、大坂の陣で滅びてしまうことになる。

その後、方広寺は現在も残っているが、その境内にあった大仏殿は、後に、落雷で火事になってしまい、方広寺そのものも焼けてしまうような大火になる。その大火の時も、なぜか耳塚はそのまま残ってしまう。京都の人は、もともとプライドが高く、江戸のような遠くに幕府をもって日本の中心のように考えている徳川よりも京都に近く政治の中心を作った豊臣に親しみを感じていた。そのような京都の人が、この大火で多くの人が犠牲になってしまうという災害があったのだ。

このように、「耳だけになっても豊臣を祟り続ける朝鮮人」の象徴が、京都の「耳塚」である。

ドラマの真田丸は、最後はどのように終わるのか今はまだわからないが、実際に、方広寺の鐘は当然に出てくるものと思われる。しかし、その真相は、「耳塚に狂わされた徳川と豊臣の運命」というようなことであり、真田幸村は、その「朝鮮耳塚の祟りと戦った」ヒーローとなったということが言えるのではないだろうか。真田氏だけ十勇士のような講談ができる背景は、やはり外国の祟りと戦ったというような感覚が日本人の間にあったからではないかと考えている。

文:宇田川敬介(作家・ジャーナリスト)

真田丸