【昭和事件簿】片岡仁左衛門一家皆殺し事件、犯人は寝ぼけ癖で減刑に?





太平洋戦争終了後、飯田利明(当時22歳)は、戦時中に徴用されていた北海道から浅草にあった岸本家まで帰宅した。

飯田は元々の苗字が岸本と言って、大阪の飯田家に養子に入っていたことで苗字が変わっていたのだ。

だが、飯田は自宅前で愕然とする。

実家は不審火で全焼し、12歳の妹以外は、全て焼死していたのだ。幸い亡くなった父が歌舞伎役者の12代目・片岡仁左衛門(当時65歳)の座付作者であったため、妹は子守女中、飯田は見習い作者として同居することになった。

これが悲劇の始まりでもあった。その同居は悲惨の一言に尽きる。飯田と妹は一日ニ食しか食べさせてもらえず、しかも政府から人数分支給されている米さえも、取り上げられ、日々メリケン粉で腹を満たすだけだった。

そして事件は、昭和21年3月15日の夜に起こった。12代目・片岡仁左衛門から書き上げた突如原稿を投げつけられ、罵倒された。

「なんだ、この原稿は!? おまえはこれでも作家なのか」

飯田は反論した。

「なんでそんなことを言うんですか」

「もう、おまえのような大馬鹿者は家にはおけない。この家からさっさと出て行け!」




怒りが収まらず、16日の朝を迎えた飯田は、廊下にあったナタを持って、仁左衛門の部屋に侵入。

「こんちくしょ!こんちくしょ!」

と連呼しながら、就寝中の仁左衛門の頭を叩き割った。

その後、錯乱した飯田は、仁左衛門の妻・登志子(当時26歳)や三男(当時2歳)、更にお手伝いの榊田はる(当時69歳)、そして実の妹の岸本まき子(当時12歳)までナタでメッタ打ちにして殺害。

食べたくてたまらなかったご飯にザラメ砂糖をふりかけて、完食するとそのまま逃走した。

4日後の20日に宮城県・川渡温泉の旅館に潜伏しているところを発見され、警察に身柄を確保された。

結局、犯人の飯田は妹を殺害したことも、ご飯に砂糖をかけて食ったことも覚えおらず、心神喪失のため、無期懲役となった。

しかも、この時の心神喪失の大きな要因として、「寝ぼけ癖」があげられ、認められていることは興味深い。5人殺しても、寝ぼけ癖があれば死刑にならないという不可解な判決であった。

こんな理不尽な話があるだろうか。

馬鹿拓郎




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