『【日本三大怨霊】崇徳上皇とはどのような人物であったか』より続く
日本三大怨霊の一人と言われている崇徳上皇だが、すさまじい怨霊となった背景には複雑な血縁関係による親子の確執があったとされている。
1123年にわずか3歳で天皇の地位についた崇徳天皇。しかし実権は白河法皇が握っていた。そして院政によって43年もの永きにわたり実権を握り続けた白河法皇が1129年に77歳で崩御。これを受けて以後は鳥羽上皇が院政を行うことになる。
そして、1141年に鳥羽上皇は寵妃である美福門院との子供である体仁親王を天皇位につかせるため、崇徳天皇を半ば強制的に退位させ、体仁親王を近衛天皇として即位させた。崇徳天皇は父の思惑により、異母弟である体仁親王に天皇位を奪われる形になったのだ。
この時代は院政によって上皇や法皇が実権を握ることが多かったため、天皇位を譲ることは必ずしも権力から離れることを意味しない。だが、通常天皇位は子供に引き継がれるものであり、その父である上皇が院政をしいて実権を握ることになる。
弟に天皇位を譲位するということは、崇徳天皇が院政につく可能性が消滅したことを意味するのである。権力なき上皇位につき、崇徳上皇となってからは和歌の世界にのめり込むようになっていく。その後、1155年に近衛天皇はわずか17歳で病によって倒れ、崩御する。
まだ若かった近衛天皇には子供がいなかったため、天皇位を継ぐ最有力候補となったのは崇徳上皇の第一皇子である重仁親王であった。それは、権力の座から離れることになった崇徳上皇にとって願ってもない機会となった。
重仁親王が天皇になれば、崇徳上皇が院政につくことが可能になるためである。だが、当時法皇(上皇が出家すると法皇となる)となっていた鳥羽法皇はこれをよしとしなかった。
美福門院が推薦する、崇徳上皇のもうひとりの弟・雅仁親王に天皇位を継がせ、後白河天皇としてしまう。鳥羽法皇の威光には逆らえず、崇徳上皇はまたも苦汁を味わうはめになり、これで院政につく可能性は完全に絶たれることになった。
【続く】
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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