広瀬さん(仮名)の地元の漁港では『溺死体』を大切にする。漁の途中で溺死体を見つけた場合は、必ず回収するし、場合によっては、漁を中止してまでも引き上げた死体を港まで率先して搬送する。その理由は死者に対する敬意もあるだろうが、もう一つ奇妙な迷信があるからだ。
溺死体は豊漁を招く神であるらしい。溺死体を回収した船は、突然の豊漁にみまわれるというのだ。その豊漁はあまりにも特異であり、他の船が不漁なのに何故かその船だけに魚があがってくる。獲っても獲っても、海からあがってくる魚たち。これが、溺死体の御礼である。それ故に、人々は口を揃えたように言う。
「エビスさまは、必ず豊漁を招いてくれる、丁重に扱わないと」
地元の漁民たちは、溺死体を『エビス』と呼んだ。彼らにとって溺死体は、豊漁をもたらす福の神に見えたのだ。七福神の一人、恵比寿。そして、神々の奇形である、蛭子。
突然の豊漁に戸惑いながら、人々の想いは、エビスへの崇拝を続けている。
広瀬さんは、今まで何度もエビスを回収している。エビスには不思議な特徴があるという。男のエビスは、うつぶせで海を漂っているが、女のエビスは仰向けで虚空を見つめながら漂っている。だから、いくら死体が腐って崩壊しかかっていても、大量の魚にその肉を食われていてもエビスの性別は判るらしい。
また、エビスは家族が呼ぶと近くに流れてくるらしい。エビスには、意志があるのだろうか。
「おい、父ちゃん、俺だぞ」
そんな風に、遺族が遭難した人々を呼ぶと、突如、エビスが、ぷっかりと海面に浮かび上がったりする。また、岩の隙間に挟まっているようなエビスも、家族が声をかけると寄ってくるという。
「早く帰っておいで」
例えば、遺族がそう叫ぶと、不思議なことにエビスは、岩の隙間から、船のほうにす-っと流れてくるという。ある意味、エビスは自力で泳ぐようだという。
これは広瀬さんのおじいさんの体験であるそうだが、昭和初期にこんなことがあったという。
若かりし頃のおじいさんもその当時から漁に励んでいた。今は途絶えてしまったが、当時その漁港では、夜に行う漁が盛んであったようだ。
「よし、今夜も大漁といくか」
そう言って張り切って漁港から出航したおじいさん。30分程、沖に船を出しただろうか、前方に漂う物体が目に入った。
「しまった、エビスさんか」
おじいさんは、軽く舌打ちをした。自分が持っているような小さな船でエビスを回収したら、きっと魚に匂いがついてしまう。だから、エビスを回収した場合、一度は漁港に帰らねばならない。
「くそ、そうしたら豊漁の時間帯に出遅れてしまう」
おじいさんの心は揺れた。『この出遅れは、売り上げに大きく作用する。どうする』『幸運をもたらすエビスをとるか、目の前の魚をとるか』・・・最近この漁港全体の豊漁続きは、おじいさんの気持ちを一層高揚させ、漁獲量増加への欲が脳髄を刺激した。
「よし、やってはいかんことだが、そっと横をすり抜けよう」
おじいさんの心は決まった。船のエンジンを切って、潮の流れにのってエビスの横をすり抜けた。息を殺し、目を見開き、エビスを見つめるおじいさん。
おじいさんは船が漂流中の時はエビスを引きあげなくてもよいと聞いたことがあった。つまり、エンジンを切って潮に流されることで、漂流中であると偽装したのである。
「こんな、小手先のことでエビスさんが許してくれるかの?」
おじいさんは、背筋にいやな汗をかいた。喉がいやに渇く、視界の端をエビスがかすめていく。永遠と思える時間が過ぎていき、エビスが背後で小さくなっていく。
「やった、うまくかわした」
おじいさんは、にやりと笑った。これで、漁にこのままいける。そう思った瞬間、奇怪な音が聞こえてきた。
「ばしゃん、ばしゃん」
明らかに海から聞こえてくる。何かが泳いでいる。激しく波を掻き揚げる音、しかも、近くだ。
「誰かが、泳いでくる」
そうつぶやくと、遠くに行ったはずのエビスの方向に目がいった。『まさか、まさかな、見てはいけない。決して、見てはいけない』、そう思ったのだが、知らず知らずに目がいってしまう。そして、エビスの方向を見たとき、我が目を疑った。
「うわわわあ」
思わず、喉からしぼりだすような悲鳴が毀れ出た。あのエビスが、あの溺死体が、泳いでくる。腐りかかった両手をぶんぶんと廻し、もの凄いスピードだ。『逃げないと、逃げないと、やばい』。興奮の為、おじいさんの手足が動かない、そして指先が震える。
「ちくしょう、ちくしょう、動けよ」
額から油汗を滲ませながらエンジンをかけるが、かからない。ガタガタと膝が揺れる、エビスの水音は確実に近づいてくる。『やばい、このままだと、エビスがこの船に、この船に・・・』。
「這い上がってくる」
おじいさんは、必死にエンジンを動かしたがまったく起動しない。そのうち水音が止まった。おじいさんは、水音が止まった方角をゆっくりと見た。するとそこには船に半身のりあげたエビスが微笑んでいた。船に腐った肉の匂いが充満した。
「わしを捨てていくな」
そう一言だけ言うと、腐敗したエビスは崩れ落ちた。まるで、腐った豆腐のように、どろりと船の甲板に崩れ落ちるエビス。腐った肉が、半分液体のようになって船に広がった。
「わわわわっ」
おじいさんは恐怖のあまり失禁しながらも、エビスに向かって手を合わせた。その後、エンジンが復旧し、無事に港に帰ったおじいさんは、エビスを引き上げた。
すると約束どおり、次の日からおじいさんの船だけ豊漁が続いたという。
(山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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