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忍者のルーツは聖徳太子だった!?「忍びの国」が出来た理由

 7月1日、嵐の大野智を主演にした映画「忍びの国」が公開される。「のぼうの城」「村上海賊の娘」などのヒット作で有名な和田竜氏の同名小説が原作で、戦国時代に伊賀忍者と織田信長軍との間に起こった天正伊賀の乱が舞台となる。

 忍者という存在は、今でも我々の夢を掻き立ててくれる。30代から40代の読者には「仮面の忍者・赤影」「ハットリくん」が有名であり、最近の若い読者は「NARUTO」が人気作品として記憶に刻まれている。




 この現代でも人気の忍びだが、ルーツは聖徳太子にあるという。太子は、伊賀の大伴細人を、志能備として使い、情報を収集したという。これを始まりとして、源義経、悪党として活躍した楠正成(現代の悪党の意味ではなく、荘園制度から独立した武士集団のこと)、地下の国々を巡ってきた甲賀三郎、義経配下で盗賊出身と言われた伊勢義盛、四鬼を使って朝廷に叛旗を翻した藤原千万らが、諸流派の開祖と言われており、孫子の兵法や修験道、密教、建築術などの影響を受けながら発達していった。

 また忍びのルーツとして、大陸からの帰化人にそれを見出す傾向もある。特に金山掘削の技術者、歌舞音曲、軽業師などで生計を立てていたものが、忍びになっていった可能性も指摘されているのだ。

 荘園制度が崩壊し、悪党などで荘園の警護や騒乱に雇われては活躍していた伊賀や甲賀の国人たちは、戦国の動乱に巻き込まれていく。伊賀は、国内に乱立する数百の組織が、血族を中心に結束し、自治共和制を持って国が運営された。戦国武将が跋扈した他国とは一線を画したのである。

 また、甲賀は国ではなく、郡であったのだが、基本的には戦国武将の六角氏の配下に置かれた。但し、六角氏の言いなりではなく、時には対立し矛先を交えるなど独自性を出している。一方、六角氏も他国の大名に攻められた場合などは甲賀に逃げ込むなど、甲賀の力を頼りきっていた側面もある。




 その後、忍びの里は、織田信長の侵攻を受ける。形式上、徳川によしみを通じていた甲賀は、信長に蹂躙されることはなかったが、伊賀は天正七年、天正九年の二度に渡り侵攻され、国土は灰燼に帰した。この伊賀の滅亡により、各国に伊賀者が流れ、各大名の忍びとして採用された。

 戦国時代は忍びの全盛期で、武田信玄は富田郷左衛門の指揮する三ツ者という忍びの軍団を持っていた。三つとは相見、見方、目付のことを指しており、彼らの任務を意味していた。他にも信玄は、山伏や御師も諜報活動に使った。これに対し上杉謙信は、軒猿という忍びを使役した。この軒猿は猿の面を被り、少数精鋭で戦い、北条の風魔の侵入を、何度となく防いだという記録がある。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)