30年も前に筆者が大学生として四国の阿波徳島から千葉県にやってきた時、県民性が似ていることに驚いた。また学校でも和歌山、静岡、千葉、茨城という黒潮の流れに沿った地域の出身者と妙に気があった。
不思議に思い、年配の民俗学の研究かに聞くと、「千葉の安房は、四国の阿波と同じ黒潮の民が作った国だから感覚が似ているのだよ。勿論、黒潮に沿った都道府県の連中は気があうはず、なんせ日本にはかつて黒潮の文化圏があったからね。海の民の王国とでも言おうかね」と言われた。黒潮にのって人間が移動するため、黒潮沿い(四国~和歌山~静岡~千葉)では地名や感性などが似てくるのだという。最近、サンカ関連の著作などにより、山の民の研究はすすんでいるが、この手の海の民の研究はこれからである。
調べてみると、千葉は特に紀州(和歌山)との地名の重複が多いようである。千葉の勝浦に対しては、和歌山には那智勝浦町がある。千葉の白浜町に対して、サファリパークで有名な南紀白浜がある。他にも千葉の野島崎に対して、和歌山には御坊市野島、館山市布良に対しては、田辺市目良があてはまる。他にも地名の一致は伊豆と千葉の間でもいくつか見られ、鰹節の製法や漁業の方法も四国から千葉へと伝えられている。
ここまで一致すると、もはや偶然の一致では済まされない。かなり高い可能性で、「黒潮の民」という文化圏は存在するのだろう。地名や漁業関連の知識が伝えられたのなら、当然伝説や民話も伝わっているはずである。
その幻の黒潮文化圏において、伝播された代表的民話として「宗教家と娘の恋」というストーリーパターンがある。紀州(和歌山)で有名な伝説と言えば「安珍と清姫」であり、「道成寺物語」として広く知られている。この話が黒潮文化圏に何故か広がっているのだ。大凡のストーリーを紹介しよう。安珍という美少年の僧に惚れてしまった清姫が、安珍に言い寄るが、巧く逃げられ、その執念のために蛇身となり、逃げる安珍をとり殺すという恐ろしい伝説である。特にクライマックスで、鐘の中に安珍が隠れ、その鐘の上で清姫がとぐろを巻き、鐘ごと安珍を焼き殺すシーンは強烈である。(因みに和歌山県中辺路町が清姫伝説の地とされているが、同地では真砂兵部左衛門尉清重の娘「清」が清姫伝説のモデルとされている)
驚くべき事に、この「清姫伝説」は黒潮にのって千葉に漂着しているのだ。しかも、登場人物の若い男(宗教家)としてあの有名な「阿部晴明」が出演している。なんと晴明と地元の姫君のラブストーリーのだ。
かつて陰陽師・安倍晴明が千葉を訪問し、逗留したことがあった。しかし、この晴明、いささか女性に手が早かったらしく逗留先の娘である延命姫と契りを結んでしまった。しかし、翌朝、延命姫の顔を見るとアザがあるのに気がついた。驚いた晴明は、逃げ出すと衣服を脱ぎ、崖から飛び降りたように工作した。追ってきた姫は清明が身投げしたと思い、自らも入水してしまった。なおこの時、延命姫は夜叉の姿、あるいは蛇体となったと言われている。
いかがであろうか。この延命姫伝説は紛れもなく清姫伝説の千葉バージョンではないだろうか。まあ本物の晴明が千葉で女を捨てるなどという野暮な事はしないであろうが、陰陽道が黒潮文化圏で流布されていたのは事実のようである。実際、静岡や神奈川では晴明伝説が多く、東京、千葉でも陰陽道や晴明信仰が盛んだった形跡がある。かつて、海の民がつくった幻の王国「黒潮文化圏」には、間違いなく晴明の系譜をひく陰陽道の使い手が参加していた。これは何故であろうか。京の都で隆盛を誇っていた晴明一族が何故、海の民に合流したのであろうか。
調べてみると、平安時代末期には、晴明の子孫や弟子たちは再び勢力を盛り返した仏教側によって政界を追われ、北陸や太平洋側に落ち延びていたのだ。つまり、公の陰陽師から民間陰陽師に零落する者が出始めていた時期なのである。また鎌倉に拠点を構えた源頼朝は、陰陽道にも理解があり、鎌倉幕府は多く陰陽師を迎えている。(事実、鎌倉には晴明縁の史跡が3箇所ほど存在する)つまり、頼朝は朝廷や平家に対して、陰陽道(晴明の末裔)たちを従えて、霊的な呪術合戦を挑んだと思えるのだ。勿論、陰陽師たちも自分らを追放した都を呪ったことであろう。
こうして、海の民となった晴明の子孫たちは、都を呪いながら黒潮にのって各地に移住していったのである。こうして、黒潮の民にとけ込んだ晴明の血は、このあと1000年に渡り、朝廷と呪術戦争を繰り返す、頼朝、尊氏、信長、秀吉、家康、いずれも黒潮文化圏の影響下に生まれた有力者たちが、朝廷に対抗する武家政権を築きあげたのだ。晴明の呪いと怨念は深く静かに黒潮にのって流れているのだ。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)