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海中に没した?謎の城 屏風ヶ浦の「佐貫城」

千葉県富津市佐貫には、かつて「佐貫城」と呼ばれた城が存在していた。

鎌倉時代頃に、真里谷氏(真里谷武田氏)によって築かれた平山城であり、後にこの地を収める里見氏の重要な拠点となり、明治期まで維持されていたという。

こちらの佐貫城と同名の城が、千葉県銚子市にも存在していた。

平安時代末期から鎌倉時代にかけて屏風ヶ浦に存在していた「佐貫城」は源頼朝によって築城され、平安末期には源頼朝の部下であり四天王の一人であった片岡常春(ないしは、その弟である常高)が守っていた。




佐貫城に関する記述は「海上郡誌」「東国古戦記」「飯岡町史」にも記載されており、「東国古戦記」によれば海に面した崖の上に存在しており、現在は波による浸食によって海中に没してしまったとみられている。しかし、七百年で城があったとされる場所全てが海に沈んだとは考えにくいため、現在では礎石など一部が屏風ヶ浦に今も残っているのではないかと見られている。

その可能性が高いとされる場所が、屏風ヶ浦に存在する謎の大穴だ。屏風ヶ浦は千葉県銚子市名洗町から旭市上永井の刑部岬までの海岸線に連なる、海の浸食で独特の景観になっている岸壁だ。景観が似ていることから「東洋のドーバー」とも呼ばれ、2016年には国の名称及び天然記念物に指定された。

問題の穴は海面から高さ約10メートルの所にあり、穴の大きさは高さ約2メートル、横幅約3メートルもあり人が自由に出入り出来る規模となっている。上部はアーチ状になっていて、人為的に空けられた物であることは間違いないという。この穴の正体に関しては諸説あり、佐貫城の伝説から考えると、城から逃げるための抜け穴ないしは城攻めの際に開けられたものではないかとされている。

一方で、横穴式の古墳だったのではないかとする説もあり、更なる調査を要するものである。だが、屏風ヶ浦の岸壁に存在していることもあって、なかなか調査は難しいようだ。

佐貫城は存在していた事は間違いないのだが、期間が短いこともあって謎の多く残っている城でもある。屏風ヶ浦に立ち寄った際には、歴史のロマンに浸ってみるのも良いのではないだろうか。

(田中尚 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

※画像は銚子電鉄公式HPより