情報伝達が発展した現在でも古い資料やマイナー資料から新種の妖怪が発見される事がある!!
徳島県北島町の妖怪「なげだし」などは、その良い例である。
「北島町報」(122号)4項 昭和39年8月10日に興味深い記事が載っていた。徳島県北島町の妖怪「なげだし」の記述である。
町立病院のあたり上地という場所に出た妖怪である。方言で書かれているので読みづらいが興味深い話なのでお勧めである。
「一ぱい気嫌の太郎蔵さんは、快い夜風に吹かれながら細いたんぼの中の道を歩いていた。のみやで、今酒を汲み交したおなごはんの事を思い、ひとり、にやにや笑いをしながら、それでもさすがに足は家路へと急いでいた。池のはたの細道まで来た時、何か知らけはいに後を振りむくと いつ何処から現れたか、太郎蔵さんのすぐ後の足許に髪ふりみだした大女が、すねもあらわに足を投げ出して地面によこにじっている。アッと思った瞬間、太郎蔵さんを見つめて、片眼をつぶってウインクした。ゾット頭に血が三升。無我夢中で逃げ帰った。其の後、或る時はケムクジャラな太くたくましいすねを投げ出し或る時は、細いしなびたすねを投げ出し、地面に横じつていたそうな」
この話は「上地のナゲ出し」と言われ、狸のいたづらとして伝えられてきた。
他にも昭和初期にどのように妖怪伝説が成立したのか、その経過を推測できる記述も先日発見した。
『怪異考・化物の進化 寺田寅彦随筆集』(寺田寅彦 中公文庫 2012年8月25日)の24項に妖怪の誕生の関して興味深い記述がある。
「友人で禿のNというのが化け物の創作家として衆に秀でていた。彼は近所のあらゆる曲がり角や芝地や、橋の袂や、大樹の梢やに一つずつきわめて恰好な妖怪を創造して配置した。たとえば「三角芝の足舐り(あしねぶり)」「T橋の袂の腕真砂(うでまさご)」などという類である。前者は河沿のある芝地を空風の吹く夜中に通っていると、何者かが来て不意にぺろりと足をを嘗める。すると、発熱して三日のうちに死ぬかもしれないという。後者は城山の麓の橋の袂に人の腕が真砂のように一面に散布していて、通行人の裾を引き止め足をつかんで歩かせない。これに会うとたいていはその場で死ぬというのである」
やはり、妖怪伝説とは”知的な悪戯好き”の好事家によって原型が作られる場合があるようだ。ほかにも妖怪の性質に関して、古い文献を見ると新事実がわかる場合がある。
天明五年に刊行された唐來三和の作「莫切自根金生木(きるなのねからかねのなるき)」の挿絵を見ると、金霊が来て喜んでいるのかと思いきや、来すぎて困っているのでなんとか金霊に引き寄せられてきた大判小判を払い落とそうと人足が躍起になっている図が確認できるのだが、この金霊の横に小さく「ウン々々」と書かれている。
つまり、金霊は「ウン々々」とうなりながら飛んでくるのだ。
また、考古学の側面から意外な妖怪データが浮き上がることもある。橿原市教育委員会が平成22年度に市内で実施した発掘調査の結果、平安時代の鬼の絵が書かれた土器が見つかった。平安時代の鬼の絵が見つかるのは珍しい例である。
この世紀の発見は、京奈和自動車道の建設に伴う事前調査で発見された集落遺跡である新堂遺跡からもたらされたものであり、年代は平安時代後期(12世紀初め)と言われている。
この発掘された鬼面墨書土器は、新堂遺跡のある二股・釜焼地区における”土器の埋納儀礼”が行われたと思える井戸跡地から出土したが、まん丸目玉に濃い眉毛、口から二本の牙が確認できる。だが鬼の象徴である角は確認できない。
角のある鬼は鎌倉や室町時代以降にデザインされた可能性が強く、このように平安時代の鬼の絵に角は出てこないことがこの発掘で裏付けられたのだ。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)