【とんでも日本史】天草四郎は秀頼の隠し子?バテレン魔術の使い手?

江戸時代を通じ最も幕府が追い込まれた最大規模の農民の反乱と言えば、天草四朗が指揮した島原の乱であった。最近では島原一揆と表記されることも多いが、幕府が本気で潰さないと鎮圧出来ないほどの破壊力を持っていた。

 この反乱軍の象徴であったのは神の子・天草四郎であった。元和7年(1621年)に生まれたとされており 寛永15年2月28日(1638年4月12日)に原城で玉砕するまで波乱の人生を駆け抜けた。無論、このような青年の力だけで大勢の人間は束ねられないことから、背後には欧米の勢力がおり、クリスチャンの信仰心を利用して日本国内にキリスト教徒自治区を作ろうとしていたとも言われている。

 天草四郎は、本名を益田四郎時貞と言って、洗礼名をジェロニモ、またはフランシスコと言った。何の変哲もない四郎が突如「神の子」として祀り上げられたのは、マルコス宣教師が国外に追放される際に奇妙な預言を残していたからだ。「今から、25年後に神の子が出現し、弾圧に苦しむキリシタンたちを救う」というものであった。




 それから約25年後の1637年6月頃、小西行長の元家臣たちがマルコス神父の預言を天草・島原の村々にふれ廻り「神の子」への待望論が拡大、聡明な四郎は神の子として認定され、一気にキリシタンの旗印に担ぎ上げられた。

 この一連の動きで怪しいのは小西行長の元家臣たちである。クリスチャンであったのは事実であろうが、わざわざ村々で神の子の預言を触れ回るのは不可解だ。しかも、天草四朗の馬印は秀吉と同じく千成病単であり、暗に豊臣家ゆかりの人物であることを示している。また、薩摩の書物では天草四郎の事を豊臣秀綱という名前記している。さらに、大阪夏の陣で破れた豊臣秀頼が真田幸村と共に薩摩に逃れたという噂が囁かれていた。つまり、当時天草四郎は秀吉の孫であり、豊臣家復興の旗印でもあったのだ。

 これは関ケ原で敗れた大名に仕えていた浪人たちの勢力を、自軍に引き入れるための小西家旧臣たちの戦略のようにも思えるが、天草四郎が豊臣秀頼のご落胤であり、豊臣家の嫡流の血が流れているとしたら、徳川幕府があそこまで必死になったのも理解できる。



 また天草四郎はバテレン魔術と揶揄された奇跡を起こしている。天草と島原の間に浮かぶする湯島まで海面を歩いて渡ったたり、天から鳩を呼び込みその鳩を胸に抱くと、鳩が卵を産みその卵の中から、主さまの経文が現れたとか。四郎が手を天高く掲げると、その掌に聖水がたまり、その聖水で病人や怪我人が癒されたとか。現代人の我々が聞くと、すべて手品で説明がつくとわかるのだが、当時の人々から見ると奇跡に見えたのではないだろうか。

 島原の乱では、四郎と信者たちは十字架を掲げ聖戦を闘い抜いたが、1638年(寛永15年)2月27日に行われた幕府軍の4回目の総攻撃の前に全員が討ち死にした。

 当時の人々にとって、キリシタンとは得体の知れない魔法を使う連中であると思われていたようで、小西行長の墓が九州各地の建立されその慰霊が行われた。こうして天草四郎は殉教したのである。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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