史実と伝説が入り混じった人物である。

 900年代に生まれたと推定されるが定かではない。また坂田公時、酒田金時という名前で呼ばれる場合もあるが、一般的には昔話の「金太郎」という名前で呼ばれている。「金」と書かれた前掛けをしてクマや兎、猿、イノシシ・狐と遊ぶ日々をすごし、重い鉞を担ぎ熊と相撲をとった逸話で多くの国民に親しまれている。




 平安時代のゴーストバスターである源頼光に仕え、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光(平貞道)とならんでの四天王と称された伝説の猛者。この五名に、更に藤原保昌を加えた六名が鬼神・酒呑童子を討ち取っている。他にもこのチームで土蜘蛛、牛御前、牛鬼、うぶめなどを成敗しており、平安時代を代表する妖怪退治のエキスパートであった。

 神奈川県の足柄山をはじめ各地に金太郎の伝説は残されている。信濃国(現在の長野県)南安曇郡八坂村上籠、また越後国(新潟県)西頚城郡上路村などは出生伝説が残されている場所である。

 金時の有力な出生地は、金時神社(静岡県駿東郡小山町)付近であり、子孫とされる人々も住んでいる。同所には、金時の産湯として使用された「ちょろり七滝」、金時と母親が信仰した第六天社、金時一家の住居があった「金時屋敷」などがあり往時の様子を伝えている。

 この金時神社の伝承によると、金時は天暦10年(956年)5月に、彫物師十兵衛の娘・八重桐(やえぎり)が京にて、坂田蔵人という男と契り、生まれたとされており、母亡き後は刀鍛冶として働いていたという。

 この伝承の中にある金時の職業である刀鍛冶という設定は興味を引かれる。鉞という金属の塊を担ぎ、赤ら顔で山中に暮らしていた金時は、金属の民の一人ではないだろうか。故に母親は山姥、父親は赤龍(雷神)と妖怪のように言われたのではないか。振り返って考察してみると、金時の伝承のある場所は全て金属の民の痕跡のある場所である。

 金時神社の伝承によると、天延4年3月21日(976年)、金時が21歳の時、偶然足柄峠にさしかかった源頼光に仕官し、この時初めて坂田金時と名乗ることになった。この時、奇妙な雲を見た頼光が豪傑の存在を察知したという話もある。

 神社の伝承によると、金時の最後は不幸である。寛弘8年12月15日(1012年1月11日)九州で帝に謀反を起こした賊軍を征伐するために進軍したものの、作州路美作勝田壮(現在の岡山県勝央町)にて、熱病に感染し死去する。この時、金時は享年55歳であった。地元民は、豪傑・金時の死を悲しみ、倶利加羅神社(現在は栗柄神社)を建てて奉った。

 また異説では、客死はしておらず、主君である頼光の没後は、都を去り足柄山で消息を絶ったと言われている。非常にミステリアスな人物だが、まったく架空の人物というわけでもなく、実在したモデルはいるようだ。

 史実の金太郎を資料で確認していくと、『御堂関白日記』に、1017年の項目に道長の近衛兵の中でも秀でていた人物に下毛野公時という男がおり、18才で死んだとなっている。この時金時は「相撲使」という役職であり、金太郎のモデルにはふさわしい人物である。




 また、頼光の活躍した時代から百年ほど後に成立したとされている『今昔物語集巻二十八第二話』において、公時(=金時)の名の郎党が、頼光の家来として記述されている。公時が同僚の貞道、季武の三人で加茂祭りの見物に出かけたが、初めて乗る牛車の乗り心地の悪さに、三人とも乗りもの酔いをしたという情けない話が収められている。

 この日本人に愛された豪傑・坂田金時の真相は闇のままである。山から都に降りた怪童は、主君・源頼光の為に、同族である妖怪たちを退治しながら生き抜き、そのまま歴史のかなたに消えてしまったのだ。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)

画像は『金太郎 (新・講談社の絵本) 』表紙より

 

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