信長を殺したのは実は・・・長宗我部と本能寺の因果関係

 本能寺で織田信長を殺したのは明智光秀である。これは揺るぎようが無い歴史的事実である。だが、政治的な暗殺事件には必ず黒幕が存在する。果たして光秀の背後に潜む黒幕誰だったのか。伊賀越えで窮地を脱した家康、たった三日の行程で中国遠征から帰還してきた秀吉などが有力な容疑者であり、他にも天皇の権威を蔑ろにした信長を朝廷が始末したという説や、里を滅ぼされた伊賀・甲賀の忍びによる復讐説、自らを神と言い出した信長にイエズス会が制裁を加えたという説が囁か れている。中でも長宗我部黒幕説は、長宗我部元親の再評価が進む昨今、俄かに脚光を浴びている。

 長宗我部黒幕説の根拠は、そのタイミングである。本能寺で信長が横死した天正10年6月2日、信長の三男である神戸信孝を総大将に、丹羽長秀や三好一族で編成された四国討伐軍が出航する予定であった。この2万とも、3万とも言われる討伐軍が四国に上陸した場合、長宗我部の滅亡は避けられない。が、“本能寺にて信長死去”という一報が入り、統制を失った討伐軍は仲間割れを起こし瓦解、長宗我部は辛くも窮地を脱する。あまりにも
タイミングが良すぎるではないか。




 そもそも、織田信長と長宗我部は友好関係にあった。信長は長宗我部信親に自らの一字“信”を与え、四国 において長宗我部元親に領地は切り取り自由という許可を出している。だが、四国統一が実現すると、長宗我部の実力を警戒した信長は掌を返し、長宗我部家の領地を土佐と阿波に限定し、讃岐など一部の領地を三好家による支配とする方針を固めつつあった。勿論、長宗我部はこれに反発した。

 こうして、信長と長宗我部が一触即発となった時、信長が本能寺で光秀に殺されたのだ。果たして、単なる偶然なのだろうか。あまりにも怪しいではないか。しかも、長宗我部元親の正室は、明智家の重臣・斎藤利三の妹であり、同じく斎藤利三の兄である石谷頼辰は、信長と長宗我部の調停役として度々四国を訪問している。

 この石谷頼辰が、明智と長宗我部の連絡役であった可能性は高い 。領地問題で調停を進めるうちに、長宗我部から石谷に明智と「長宗我部の両家で信長を討ち、天下を狙おうではないか」そんな甘言が囁かれたのではないだろうか。しかも、この石谷頼辰は、山崎の合戦で明智軍が壊滅した後は、長宗我部の家臣になっているのだ。

 やはり、四国の領地問題で両者の板ばさみになった光秀が、長宗我部との密約を持って本能寺で主君を襲ったという可能性は充分にありうる。あの慎重な光秀が、周囲の勢力の後押し無しで、クーデターを起こすとは考えられない。事実、本能寺の変の直後、光秀は長宗我部に与力の依頼を出している。予め、根回しがされていたとしたら、どうだろうか。また、家康も光秀・長宗我部という犯行グループの共犯であっ たかもしれない。彼らにとって唯一計算違いだったのは、秀吉が予想外のスピードで京都に帰ってきた事である。尤も、秀吉は犯行計画を知っていながら、そのまま見過ごした確信犯であるが…。

 結果、孤立する光秀に対し、長宗我部は近畿に兵を送らず、見殺しにしてしまう。いや、こういう推理も成り立つ。長宗我部にとって、最初から単に信長を殺すのが目的であり、光秀など捨てコマであり、謀反後助太刀するなどまったく無かった可能性もある。考えてみれば、謀略を駆使して四国を平定した長宗我部である。気真面目な光秀を手玉にとることぐらい容易であったのだろう。

 関が原の合戦後、西軍についた島津家、毛利家が領地を減らされ、長宗我部家が領地召し上げとなっ てしまうのだが、この三家が徳川に対する怨念を晴らす戦が戊辰戦争である。かつて、煮え湯を飲まされた薩摩(島津)、長州(毛利)、土佐郷士(長宗我部)が原動力となり、徳川を倒した事は、ある意味関が原の因縁であり、復讐であったといえよう。




 聊か不気味なのは、薩長同盟の仕掛け人である坂本龍馬が明智家の末裔であるという異聞である。当然、正史では否定されているのだが、伝承によると龍馬の一族は、光秀の娘婿である明智秀満の末裔が土佐に逃れたものだと言われており、坂本という姓はかつて光秀の居城であった坂本城に因みつけられたと言われている。

 それにしても、天下布武という本懐を遂げれなかった信長が光秀によって暗殺された京都にて、明智家の末 裔と噂された龍馬が維新という本懐の直前に暗殺されてしまったのは、歴史の皮肉を感じてしまう。因果は巡るのだ。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)

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