性行為で信者の色欲を煽る宗教団体

 現代でも、セックス教団と呼ばれる団体はいくつか存在する。

 自由な性行為やグループでのセックスがマスコミ的に注目されるが、その大部分は悪魔系教団であったり、西洋のニューエイジ世代の宗教団体であったりする。だが本来、男女の性交に宗教的奥義を見だしたのは密教系の教団であった。

 かつて、我が国には政治まで影響を及ぼしたセックス教団が存在した。その名は「真言立川流」、俗に立川密教と呼ばれるカルト集団である。ちなみに、この教団が表面上の歴史から抹殺されているのは、一般的に「邪教」と呼ばれているからであり、男女の和合を修業とし、当時仏教の戒律では禁止されていや獣を食う行為、つまり、肉食さえ許したとされている異質の集団であったからである。

 この立川密教の歴史は古く、平安時代まで遡る。平安末期の頃、源氏の村上氏に仁寛阿闍梨が生まれる。大変な高僧で輔仁親王の護持僧を勤める程であった。この仁寛が開祖となり、真言密教の分派として、立川密教が生まれた。その誕生からして既に呪われている永久元年、1113年に、仁寛は政争に巻き込まれ、伊豆へ配流された。

 仁寛は伊豆で自分を陥れた連中を呪った。その時、見蓮という陰陽師と知り合う。二人は意気投合し、真言密教と陰陽道との融合をはかる。それが後の立川密教になるのだ。そして、仁寛は名前を蓮念と改め、自分の命と引き替えに、都の政敵に呪詛をかけたのである。仁寛の死後、盟友・見連が立川密教を全国に広めることになる。

 驚くべき事に鎌倉時代末期には、本家である高野山の僧たちにも影響を与え、男女が交合が密教理念の極致であるという理論さえ、高野山で言われるようになっているのだ。




 それでは、立川密教の教義をみてみよう。この教団の奥義が記されているという「受法用心集」によると、教団の本尊は髑髏であり、その髑髏は智者、行者、国王が良いとされ、漆を塗って歯をつけ箱に納めるという。そしてその前で男女和合し、その混ざり合った体液を髑髏に塗りつける事を120回繰り返すという凄まじいものである。

 そして、毎夜丑三つ時に反魂香を1000回炊き込み、和合しまざった体液で曼陀羅を髑髏に描き、女性の経血で染めた錦で何重にも重ね置くと、本尊が眼前に現れ、過去・現在・未来の事を告げ、行をしている本人は神通力が身に付くという。

 この恐るべき教団が全盛期を迎えるのが南北朝時代である。当時足利氏の擁立する北朝と、後醍醐天皇を擁する南朝が激しく対立していた。京都を中心に南朝は山の民や、怪しげな呪術者さえも取り込み、山中に潜みながらゲリラ的闘いを継続していた。その後醍醐天皇のブレーンは、異才・奇人・怪人で構成されていたのだが、その中で特に異彩を放っていた異形の僧が文観であった。

 この男、只の僧ではなかった。若き頃から算術、ト筮を学びダキニ天(通常の仏教では文殊菩薩と呼ばれる)を奉り、日々呪術の研鑽に励んだ異形の僧侶であったのだ。そして、この文観は、当然ダキニ天法を使うと推測される。だが、このダキニ天法というダキニ天使う呪術が問題なのである。後々も多くの野心家がこの呪術を使ったのであるが、日本の歴史を塗り替えるほどの威力を発揮したと言われている。

 元々ダキニ天法とは、空海の開いた高野山の奥義のひとつであるが、これが山の外に流失してしまった。それを在野の異形僧である文観が会得した形跡があるのだ。

 この怪人・文観を、後醍醐天皇は重用し、側近として召し抱えたのである。一説によると、後醍醐天皇も文観により、立川密教の奥義を伝授されたと噂された。なお文観は、後醍醐天皇に対し恩義を感じていたのか、後醍醐天皇崩御後も、南朝のために呪術を駆使した。しかし、この立川密教の隆盛と実力に危機感も持つ勢力があった。高野山・東寺である。彼らは朝廷に上奏文を提出、文観の役職を解いた。そして僧兵を送り、立川流信徒を壊滅したのである。

 その後僅かに残党が立川密教を存続させるが、江戸幕府により滅ぼされてしまった。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像©PIXABAY

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