源為朝と言えば平安時代末期の武将であり、源為義の八男である。有名な源頼朝や源義経から見ると叔父に当たる人物である。本誌ATLASでも以前触れたが、源義経が大陸に渡りジンギスカンになったという伝説があるように、この為朝にも不思議な伝説が残されている。
この為朝は弓の名手であり、巨大な弓を2m超えの巨躯を使って豪快に引いて相手を粉砕する豪傑であった。あまりに粗暴なため父親に嫌悪され、九州に飛ばされてしまうのだが、九州でも暴れまくり鎮西八郎という異名をとることになった。その武勇をかわれ、保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方について奮戦するが敗れてしまい、伊豆諸島に流罪になってしまった。
伊豆諸島でも大人しくすることはなく、武勇に任せて伊豆諸島を統一してしまったため朝廷から遣わされた討伐軍と交戦、いくら豪傑でも多勢に無勢である。最期は戦いに敗れ、為朝は命を落としてしまう。
だが為朝は伊豆に流される前に琉球に立ち寄っており、そこで妻をもらい子供を授かっていた。今帰仁村(なきじんそん)にある運天港(うんてんこう)は為朝が上陸した場所だという伝説が現在でも残されている。妻子を残して為朝は伊豆に旅立ち、討ち死にしてしまうので、英雄の不死伝説ではないのだが、琉球に残した子供が琉球王統の始祖・舜天になったと言われているのだ。
これは大和側だけの主張ではない。琉球王国の正史『中山世鑑』、『琉球神道記』、『おもろさうし』、『鎮西琉球記』などに記述されており、江戸や大阪でも滝沢馬琴の『椿説弓張月』などで広く知られるようになった。
無論この伝説は、日本陸軍の大陸支配の正当化に使用された義経=ジンギスカン説と同じように、薩摩の琉球支配の正当化を狙った「日琉同祖論」であり、情報操作である可能性が高い。薩摩を支配していた島津氏も源氏であったため、同族とした方が何かと都合が良かったのであろう。
だが果たして、それだけの理由でこの伝説が琉球に残ったのであろうか。筆者は琉球国内において、ヤマトの勢力をバックボーンにして王朝内で力を握りたいという勢力が、伝説を琉球国内で広げた可能性も捨てきれないと思っている。幾ら薩摩側の圧力があったとしても、あまりにも琉球側の資料にこの説が採用され過ぎである。琉球王朝内部にこの為朝伝説を自らの利益のために利用した連中がいた可能性はありうるだろう。
また、為朝本人はないにしても、伊豆諸島の武士たちが海流に乗って琉球に定着した事実だって充分に可能性はある。伝説には何らかのモデルがいる場合が多いからだ。果たして、海を駆けた武将・為朝は琉球に渡ったのであろうか。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)