歴史上の人物の評価というものは、その時代時代によって変わっていく。かつて極悪人とされた人物も後年新しい解釈や新資料によってイメージががらりと変わることも珍しくない。
かの織田信長という人物も昨今イメージアップに成功した人物である。
高度経済成長時代、筆者の父親など企業戦士たちに愛されたのは耐えがたきを耐え、忍び難きをしのぶ徳川家康であり、強権的な改革者であった織田信長は短気で部下への思いやりの欠ける人物として解釈されてきた。だが、ここ20年あまりでベンチャー企業やIT企業など起業する人々が増え、若い会社員にも会社への帰属意識が薄くなったこともあり、信長の評価が上がってきている。
改めて信長の業績を考えていくと、仏教を排斥し天皇に逆らった極悪人というイメージはなくなってくる。
本稿では信長の行動を今までとは違った視点から分析してみよう。
これはよく知られた事だが、もともと織田家は神主の流れをくむ家柄であり、信長自身も神道には帰依していたようで、桶狭間の合戦の前に熱田神宮を参拝している。
よく比叡山焼き討ちを批判されるが、当時の僧侶の風紀の乱れは尋常ではなく、気真面目な信長が神道の敵である仏教を討ち果たしたと解釈すれば納得がいく。
神道好きの信長が毘沙門天の化身・上杉謙信や、不動明王を崇拝した武田信玄と抗争した背景には神道対仏教の対立構図があると想像すると違う側面が見えてくる。
信長が自らを仏教に害をなす「六天魔王」と称したのも、神道から仏教への挑戦だとしたらスムーズに理解できる。ある意味、信長の覇道とは宗教戦争であったのだ。
また信長は朝廷をないがしろにしたと批判されることもあるが、当時の朝廷は足利の傀儡として擁立された北朝の流れであり、信長が熱心な神道の信者だとすると、南朝を崇拝していたために北朝勢力が運営していた当時の朝廷に対し反抗的であった理由がよくわかる。つまり、信長は北朝を足利と一緒に葬ろうとしていただけなのかもしれない。
さらに信長が実施した楽市楽座も現代で言うところの自由貿易であり、独占禁止法である。家柄や年功序列の関係なく家臣を評価した評価手法は、現代の出来高による査定方法に近い。信長軍団は無敵であったのも、実力主義の企業集団であったからだ。
また鉄の船を造らせるような奇抜な発想力や黒人を部下に持つ柔軟さなどもまるで現代のIT社長である。かのホリエモンがライブドア事件により逮捕されたときに、「現代の信長が本能寺で討たれた!」とホリエモンの父親がコメントを出していたこともなかなか印象的なシーンだ。改革者とは大勢の無能者によって駆逐されてしまうものなのだ。
もし保守的な家康ではなく、あのまま信長が天下を統一し織田幕府が出来ていたら、日本において世界初の産業革命が起こり、イギリスと七つの海で覇権を争っていたのではないかという仮説もあるが、これもまんざら嘘ではあるまい。どうも、信長は世界の制覇を目指していた節がある。
ここに断言しよう。信長は熱心な神道の信者であり、柔軟な発想に満ち溢れたすぐれた経営者であったのだ。単なる短気で感情的な人間ではない。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)