人間は太古の昔から鳥のように空を飛ぶことを夢見てきた。
人類史上初めて空を飛んだのはイギリス人、ジョージ・ケイリーだと言われており、1849年にケイリ―がグライダーにより有人飛行に成功したのが航空史の始まりだと言われている。その研究はドイツ人のオットー・リリエンタールに引き継がれ、現代の航空工学へと発展していった。
これが歴史上での常識である。だが、世界で初めてグライダーで空を飛んだのは日本人・浮田幸吉だったという記録があるのだ。
江戸時代中期の1757年(宝暦7年)、備前国児島郡八浜(現在の岡山県玉野市八浜)に生まれた浮田幸吉は、7歳で父を亡くし岡山の紙や表具を扱う商店に丁稚奉公に出る。生来まじめな性格の幸吉は、めきめきと腕をあげていった。
だが、いつしか空を飛ぶ鳥のように飛びたいという欲求を持つようになり、鳥を生け捕りにして羽の構造や大きさを測定したり、時には解剖までして、体重と翼の比率を測定したりするようになった。地元に残る伝説では仕事の合間に近所にあった蓮昌寺の境内に出かけては鳥の観察をしていたという。
空への欲求を抑えきれない幸吉は、表具の技術を使って竹と縄の骨組みで巨大な翼を作成し、翼には紙と布を張り、防水加工として柿渋を塗り、世界初もグライダー飛行機を完成させた。その後も試作を重ね、最終的には翼長が約5.4mもある飛行機が完成した。
早速、出身地・児島郡八浜(現在の岡山県玉野市)にある八幡宮の石段から、滑空実験を行ったが、数メートルは飛行出来たものの足を骨折する怪我を負ってしまった。
それでも幸吉はあきらめない。1785年(天明5年)夏、旭川に架かる橋にて再度飛行実験を行った。欄干から飛び上がった幸吉の飛行機は、風に乗って浮遊し一回旋回し数メートルの滑空に成功した後落下した。河原に夕涼みに出てきた人たちは幸吉を指さし「鳥人」「天狗様」と叫びまくり大騒ぎになった。この人心を騒がせた罪により岡山から追放されることになった。
この事件こそが世界初の飛行機(気球は除外する)による有人飛行である。この事件は当時日本中で噂になったようで、菅茶山の著作『筆のすさび』でも記述された。
その後、幸吉は駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)に移住し、「備前屋幸吉」の名前で郷里児島の木綿を商う商人となった。同時に歯科技師として入れ歯の制作に没頭し、表具と歯科技師の技術を総合し、晩年にも飛行機制作に挑戦した。その究極の飛行機は手で翼を動かし、足で尾翼を操作する現在のグライダーに近いハイレベルな構造であったと言われている。
駿府での飛行実験も大勢の人々の度肝を抜き、再び追放の憂き目にあってしまう。
最期は、遠江国見附(現在の静岡県磐田市)に定住し飯屋を営みながら、妻子と共に平穏な余生を送り、1847年(弘化4年)に91歳(90歳という説あり)の波乱の人生を終えた。現在でも、幸吉の墓は磐田市にあり、多くの航空ファンが足を運んでいる。
浮田幸吉は鳥になる夢を叶えたかった。只それだけである。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)