忠臣蔵と言えば我々日本人にとって美談の典型とされ、年末の恒例行事のようにドラマ化、映画化がされている。しかし、よくよく考えてみると不可解な部分も多い。その疑問点を幾つか考察してみたい。
そもそも浅野内匠頭が刃傷沙汰を起こしたが故に切腹に追い込まれ、お家が断絶しただけであり、その原因は浅野内匠頭本人にある。
芝居や映画では悪役にされている吉良上野介は名君との呼び声が高く、愛知県の吉良町ではいまだに良き殿様として慕われている。我々現代人に価値感から判断すると、一方的に切り付けられた被害者であるはずの吉良上野介が不意打ちで寝込みを襲われた強盗殺人に過ぎない。
当時の人はどのような感覚でこの事件を捉えたのか、また事件の真相は何処にあるのだろうか。
まずは浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった動機である。芝居では吉良が賄賂を要求し、それを拒んだ浅野に対して虐め行為を行ったとも、塩田の秘訣を教えるように求めた吉良の申し出を浅野が拒絶したために両者の関係が悪化したともされている。
その為、吉良が適切な指導を行わず、失敗が続き浅野が激高したとされているが、浅野はこの時頭勅使饗応役は2度目であり、実務そのものは家臣たちがやっており、吉良と浅野の殿様同士で虐めがあって、それが式典での粗相に繋がるとは考えにくい。
また、そのような非礼な行為が吉良側からあったとすれば、浅野側の家臣も気がつかないわけがない。だが当時、浅野側の家臣たちも主君の凶行の動機を図りかねている様子が伺えるのだ。
ここで近年有力視されているが、浅野内匠頭精神的疾患説である。
当時、浅野内匠頭は「つかえ」と称する病気の治療を受けており、この「つかえ」は現代医学における鬱病に該当するのだ。元々短気であった浅野内匠頭が病気の悪化により、理性で感情を制御できなかったとすれば納得がいく。
気になるのは浅野内匠頭の母方の叔父にあたる内藤忠勝という人物がこれまた刃傷沙汰を起こしている点である。遺伝的になんらかの疾患を持っていた可能性はないのだろうか。
このように一方的な傷害事件にもかかわらず、赤穂浪士は”喧嘩両成敗”と主張し、討ち入りに進んでいく。この討ち入りに対する江戸幕府の対応に関しても不可解な部分がある。「赤穂浪士はいつ討ち入りするのか?」という機運が江戸中で高まる中、8月には吉良家に対して、呉服橋から両国付近に屋敷替えを命じている。この新しい屋敷は江戸城から遠く、また親戚筋の上杉家からただちに援軍を寄こせない距離であり、まるで幕府は”赤穂浪士に吉良と討たせやすくした”と邪推されても仕方ない差配である。
また、赤穂浪士には江戸で吉良上野介の打ち漏らした時に備えて、別働隊が存在したという伝説がある。播州赤穂藩の家老・大野九郎兵衛は、打ち入りに反対し大石内蔵助と対立したとされているが、実はそれは偽装行為であり、密かに連絡を取り合って、大石本隊の襲撃をかわして米沢の上杉領に逃げ込む吉良上野介を討つために待機していたというのだ。
大野は配下の者たちと、米沢の板谷峠に潜んで逃走してくる吉良一行を待っていたが、大石率いる赤穂浪士本隊が見事本懐を遂げたと聞き感涙し、その場で切腹したとされており、板谷峠には供養碑が残されている。
多くのミステリーが内包されている赤穂浪士、飽きたといいつつも年の瀬になると忠臣蔵が見たくなる。それが日本人である。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)