タイムトラベル

島民の犠牲者ゼロ?!日米激闘の地「ペリリュー島」で下した日本軍の決断

ペリリュー島は、現パラオ共和国にあるパラオ諸島の主要な島の一つである。第二次世界大戦時の1944年9月15日から11月27日にかけて、日本軍とアメリカ軍の激闘が繰り広げられた「ペリリュー島の戦い」の舞台になった島として知られている。

1944年9月当時、フィリピン総攻撃態勢を敷いていたアメリカ軍がサイパン、グアムなどを攻略する中で次なる攻略の目標としていたのがペリリュー島であったが、その最大の理由は、この島に日本海軍が大規模な飛行場を建設していたことにあった。

放置すればフィリピン攻略の障壁となってしまうことを懸念したアメリカ軍が日本軍と飛行場の争奪を掛けた場所、それがペリリュー島だった。

日本軍は極めて劣勢であった。対するアメリカ軍は戦車10倍、重火器100倍、航空機200倍とも言われていた。この圧倒的戦力差から、この時米海兵隊の第1海兵師団を率いていたウィリアム・M・ルパータス少将は、3日あれば決着がつくだろうと豪語していたほどであった。

ところが、いざ戦闘が開始されるや否や戦闘はなんと73日間にも及ぶ長期的なものとなった。

中川州男大佐率いる守備隊(陸軍歩兵第2連隊)は、バンザイ攻撃を行なわずに1発1殺、1人1殺を貫き果敢に戦った。しかし、アメリカ軍の砲撃は激化していきついに守備隊は補給路を断たれ、11月24日に中川大佐らが自決、この時「サクラ、サクラ、サクラ 我が集団の健闘を祈る」という電文が打たれたという。

1万人もの日本兵たちがペリリュー島で玉砕する結果となったこの戦闘は、27日にアメリカ軍の全島占領によって終結する。しかし、3日で終わると豪語していたはずの戦闘は、ふたを開けばアメリカ軍だけでも戦史2336名、戦傷者8000名以上という甚大な損害を与える結果となった。

そのような歴史を持つペリリュー島ひいてはパラオであるが、前述したようにかつて日本が統治していた。日本統治時代というと今もなお批判のやまない韓国をイメージする人も多いかもしれないが、パラオは反日的であるどころかきわめて親日的な国であることはよく知られている。パラオの国旗は、日章旗をモチーフにしているというのはあまりにも有名な話である。

一体なぜだろうか。

時代は19世紀。当時、パラオはスペインとドイツに支配されていた。白人統治の時代は、賃金無しで奴隷のように働かされ、倒れれば鞭打ちの罰、暴動を起こせば銃殺、そして木に吊るされ見世物にされたような時代であった。

事態が一変したのは、第一次大戦後の1919年。当時パラオを統治していたドイツが戦争に敗れたことで、パリ講和会議に基づきパラオの統治が日本に委任されることとなった。パラオの人々は、再び白人のような残虐な支配になることを恐れていたが、統治した日本が行なったのは、学校を造り、病院を建て、道路、水道、電気といった様々なインフラの整備といったまつで白人統治とは雲泥の差とも言える支援の数々であった。

ペリリュー島の人々も、進駐した日本軍にはじめは怯えていたものの、日本軍は警戒心を解くために丁寧な話しかけを続け、共に歌を歌うほどの友好的な関係にまでなったという。

ついにアメリカとの戦闘が始まろうとしていた頃、島民たちはそんな日本軍と共に戦うことを望んでいた。ところが、日本軍から言い放たれたのは「帝国陸軍がお前ら土人と戦えるか!」という怒声であった。これはペリリュー島と島民たちを守るための発言であったと言われており、島民たちが船で島を出る際には浜に日本兵たちが駆け付け、かつて一緒に歌った歌を歌い見送ったという。

この日本軍の島を守るという使命により、日米双方に甚大な被害を与えた戦闘において島民の誰一人として戦死者を出すことは無かった。終戦後の1947年、戻ってきた島民たちは島中に散る日本兵の亡骸を見て涙し、一体一体を丁重に埋葬していったという。

賛否はあるだろうが、日本統治は「統治」というあり方に一つの示唆を与えるものであると言えるだろう。

【参考記事・文献】
日米決戦の激戦地 ペリリュー島
https://ameblo.jp/staydream2017/entry-12853307530.html
米軍とペリリュー島攻略戦を戦った中川大佐
https://ameblo.jp/japanese-pride-2020/entry-12856036643.html
パラオで日本兵1万人が玉砕した。しかし島民が1人も死ななかったという謎。
https://saladkan.com/warashi/palau-mystery/

【アトラスラジオ関連動画】

【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用