江戸幕府第15代徳川慶喜は、日本史上最後の征夷大将軍であり、江戸幕府歴代将軍で在職中に唯一江戸城へ入定しなかった将軍である。将軍になり1年足らずして政権を朝廷に返上し、その後貴族院議員などを挟むもほとんど隠居生活を送っていた。
彼のその資質は歴代の将軍の中でもトップクラスであった。何事も器用にこなし、手裏剣術は達人レベルであったともいわれ、また学問にも優れ話し上手だったという。そのため、当時は多趣味多芸であったと言われている家康の再来とまで呼ばれていた。
その幼少期は、イタズラをすれば火傷を負うほどの灸を据えられたり、座敷牢に閉じ込められて食事ぬきにされたりと、父斉昭による非常に厳しい教育をうけていた。寝相の悪さを矯正するため、枕の両端にカミソリを立てたという話は特に有名である。
時勢に敏感であったという彼は、それゆえに新しいもの好きであったとも言われている。それは隠居となった時期に特に強く表れており、中でもカメラによる写真撮影に熱中していたという。カメラが普及していなかった時代の写真ということで、現代では当時の情景を知る上での貴重な資料の一つとなっているが、作品としては当時も現在も評価されていないのが現状である。
自転車にも手を出しているが、横切った美人が気になりよそ見をしたために電信柱へぶつかったり、また顕微鏡を手に入れた際に好物であったきな粉を覗いてみたら小さな虫だらけであり、それ以来、きな粉が食べられなくなったり、といった逸話が残されている。
これらのエピソードからは、少々間の抜けた人物であるようにも思えてしまうが、実際は、江戸幕府の終焉を早くから感じていた人物の一人であるとも言われている。
もともと、第14代家茂の死後に彼は将軍になることを拒み続けていたが、孝明天王の指名で4ヶ月後にその役割を引き受けた。彼が将軍を拒んでいたのは、先述した江戸幕府の行く末を見越してのことであったとも言われている。
また、彼の将軍時代の記録には、横須賀での製鉄所や造船所の建設のほか、幕臣の海外留学というものもあった。この留学は、西洋文化を積極的に取り入れようとしたものであり、実際に西洋式の軍隊の導入を図ろうともしており、趣味のカメラもこの西洋文化の取り入れに起因している。
このため、日本人の誰よりも維新を望んでいたのは、実は慶喜だったのではないかとも言われている。
【参考記事・文献】
徳川慶喜
https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C
徳川慶喜の逸話を紹介!先生が教えない最後の将軍の素顔
https://x.gd/fpaTi
あと一歩のところで失敗した「ヒトラー暗殺」
https://www.excite.co.jp/news/article/BestTimes_7528/
【文 黒蠍けいすけ】