画像『黒地の絵 傑作短編集2 (新潮文庫) 』
小倉黒人米兵集団脱走事件は、1950年7月に福岡県小倉市(現在の北九州市)で発生したアメリカ陸軍兵士の大量脱走事件である。
基地から多数の兵士が集団脱走し、周辺地区の住民に略奪、暴行そして強姦を行なった衝撃的な事件であったが、当時、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による情報規制があったためにほとんど報道されることが無く、また被害者の多くが口を閉ざしたことから事件の詳細は今もわかっていない。
1950年7月11日の夜半、小倉の城野補給基地から米兵およそ250人が集団で脱走した。彼らは朝鮮戦争に控えていた兵士たちであり、そのほとんどが黒人兵であった。軍服をまとい、カービン銃やライフル、中には手榴弾を持ち出すといった、完全武装姿の兵士たちは、小倉内の地区に散っていき繁華街や民家を次々に襲撃していった。
脱走した兵士たちは、酒店に押し入って酒を大量に盗み出し、店舗の破壊や民家を荒らすなどの狼藉を働いた。特に、女性への暴行は凄惨なものであり、各所から女性の悲鳴が聞こえ、現場に向かうと髪が乱れ泥だらけの女性がうずくまっていたという例が多く見られたと言われており、中には夫の眼前で妻が犯されるといった報告もあった。
駐日米軍の憲兵と小倉警察はなすすべもない状態であり、鎮圧のために米陸軍二個中隊が投入され市街戦となった。翌12日には終息に向かったが、15日に鎮圧したとも言われている。しかし、冒頭で述べた通りGHQの情報規制によって報道が殆どなされなかった。
また、警察に届けられた被害は70数件であったが、口をつぐむ者が多かったことから、これ以上の被害数があったであろうと推測されている。こうしたことから、現在この土地に住む人々の中にはこの事件を耳にしたことがないという者も多いという。
なぜ彼らが脱走し、そして暴動を起こしたのかについては、次のように考えられている。彼らは脱走前日の10日に岐阜から移送された者たちであり、前述の通り朝鮮戦争へ送られる予定であった。米軍ではかねてより黒人兵士を消耗の激しい戦場に送り込み、いわゆる弾除けの役目を負わされることがほとんどであった。
暴動前に始まった朝鮮戦争においてもこの状況は同様であり、小倉の基地にいた黒人兵士たちもその立場で送り込まれることは明白であった。このような恐怖とストレスから自暴自棄を起こし、集団脱走に至ったのではないかと言われているのだ。なお、生き残った逮捕者達は朝鮮戦争の最前線に送られ全滅したという。
のちに、小説家松本清張はこの事件をもとにした短編小説『黒地の絵』(1958)を発表している。当時の彼は作家デビューする前で、小倉の暴動地域内に住んでいたというのだが、それにもかかわらず翌朝になって初めて事実を聞いたという。彼の綿密な取材によって執筆された本作によって、この事件は広く世に知られることとなったのである。
暴動の発端は、黒人の置かれた差別や偏見そして最前線の戦場に送られる絶望感によるものであったことは確かであろう。しかし、その矛先が米国ではなく占領下にあった日本の、それも庶民であったということは、なんとも胸糞の悪いものである。
【参考記事・文献】
250人の黒人兵が町を襲った 「松本清張」が掘り起こした、知られざる「小倉米兵脱走事件」とは?
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/07050603/?all=1
7月11日 小倉でおきた黒人暴動 ~小倉黒人米兵集団脱走事件~
https://reiwa00502.hatenablog.com/entry/2023/07/11/000000
小倉黒人兵脱走事件(7月12日)
https://ameblo.jp/omatsu1618/entry-12487588652.html
小倉 黒人米兵集団脱走 事件
https://ameblo.jp/xxmayoinekoxx/entry-12347361208.html
(黒蠍けいすけ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)