1978年に発刊された草鹿宏の著作『飛べイカロスの翼』は、1979年に西城秀樹主演でドラマ化され、さらに1980年にはさだまさし主演で映画制作もなされた作品である。
主人公栗原徹という青年が、写真家を目指す中でサーカス団員の姿を撮影し続けるうちにサーカスそのものへ魅せられていき、自身もサーカス団へ入団しピエロとなって活躍、だがサーカス団のスターとなった矢先、演技中のアクシデントにより20代という若さでこの世を去ってしまうという結末を迎える。
「青春のロマンをピエロに賭けた若者の愛と死」を副題とする本作は、実際の出来事を描いたことでも知られている。
1977年、茨城県水戸にある千波公園駐車場にて、10月29日から”キグレ大サーカス”の水戸興業が行なわれていた。キグレ大サーカスは、札幌市を拠点に全国でサーカス公演を行なっていた日本屈指のサーカス団であり、1942年に創業されて2010年に廃業。それまでは岡山の「木下大サーカス」、大阪の「ポップサーカス」と並び、日本三大サーカスの一つに名を連ねていた。
事件が起こったのは、11月23日の公演でのこと。ピエロが綱渡りを行なっていた際に35メートルもの高さから地面へ転落、意識が戻らないまま3日後に息を引き取った。この時のピエロこそ栗原徹本人であり、28歳という若さで生涯を閉じた。
栗原は、写真家を目指してキグレサーカスに住み込みサーカス団の写真を撮り続けていた。団員としての活動期間は亡くなるまでのおよそ5年間であり、ピエロを志願して演じたのはそのうち後半の2年にすぎなかったという。
もともと、そのままサーカス団に残るつもりはなく、事故の翌年には団員を辞めて海外へ渡る予定であったという。
しかし、団員となった彼は並々ならぬ努力によって難しい芸をこなしていった。その当時、サーカスに笑いが足りないということで自らがピエロ役を買って出ることとなり、パントマイムの第一人者ヨネヤマママコから指導を仰いだほどであった。そして「ピエロのクリちゃん」という愛称で、彼は瞬く間にスター団員となった。
スターピエロの墜落という衝撃的な事故は、当時かなりの話題となった。ある怪談収集家の調査によると、70年代ごろの北関東ではピエロにまつわる怪談が一部の小学校などで語られていたと言われており、この事故が由来となっているのではないかと推察されている。
近年の映画などの作品において、ピエロは恐怖のアイコンとして見られがちであり、「ピエロ恐怖症」というものまで存在するほどである。
しかし、ピエロとはいわゆる「笑われ者」だ。映画に主演したさだまさしは、その主題歌「道化師のソネット」で「せめて笑顔が救うのなら僕はピエロになれる」と歌う。恐怖や不気味の対象としてだけでなく、みなを笑顔にしたいというピエロの役目、そしてその役割に徹した青年がいたことを忘れずにいたいものだ。
【参考記事・文献】
日本三大サーカスのキグレサーカスとは?
ちなみにこれが、高崎市立南小学校でのピエロ怪談記事。
ちなみにこれが、高崎市立南小学校でのピエロ怪談記事。 pic.twitter.com/JEhZXyDic5
— 吉田悠軌 (@yoshidakaityou) September 18, 2016
さだまさし「道化師のソネット」とサーカスの裏側にある深い悲しみ
https://reminder.top/777213611/
さだまさし「道化師のソネット」名曲の中で生き続ける “栗原徹” なるピエロ
https://reminder.top/393193811/
さだまさし 「道化師のソネット」と水戸とのつながり
https://x.gd/9AKUr
(ZENMAI 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
Photo credit: dhammza on VisualHunt
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