10年で滅びた呪われし幻都

かつて平城京から平安京へ遷都した歴史的事実は、誰もが義務教育で学ぶ一般常識である。だがこのことが、若干事実と相違があることを知っていたであろうか。

実は、平安京よりも前に長岡京という都があったのだ。784(延暦3)年から794(延暦13)年に平安京へ遷都されるまで、わずか10年しか存在しなかった「幻の都」と言われた。

疫病や飢饉により奈良には大仏が建てられ仏閣も増え仏教勢力が強まったことと、壬申の乱で勢力が強かった天武天皇一族の力を桓武天皇が恐れたことが遷都の主な理由であった。

そこで側近・藤原種継のゆかりの地である長岡京を選んだ。これにより藤原家との結びつきも強まり、秦氏の本拠地とも近くなり渡来人が多かったことも理由の1つとされた。




長岡京は桂川と宇治川と木津川の3つの大きな川の合流地点であり、平城京より流通が良く水が豊富なため衛生的でもあった。水路に恵まれたこともあり、難波宮(なにわのみや)を解体して長岡京に移築された。難波宮の近くにあった難波津がかつての輸送ルートであったが、土砂で使えなくなったことからも遷都の必要性があったのであろう。

このように条件が揃っていたにも関わらず、長岡京では平安な日々が続かなかった・・・

よりによって、重要な位置にいた藤原種継が暗殺されてしまったのであった。寺院系と関係ある人物や遷都に反対していた大伴氏や紀氏など、多くの人間に容疑がかけられ処罰された大事件であった!

桓武天皇の弟にあたる皇太子・早良親王にも謀反の疑いがかけられ、淡路島(兵庫県)へ流罪に処された道中で命を堕としてしまった。彼は無実を訴え絶食していたにも関わらず、実に悲劇の皇子として未だに怨霊や呪いの話が伝えられている。

その後、桓武天皇の夫人・実母・皇后も次々と亡くなり、皇太子・安殿(あて)親王まで大病を患ってしまった。まるで未婚のまま寂しい亡くなり方をした早良親王が、桓武天皇の大事な女性達を連れて逝ってしまったようにも見えたであろう。

さらに天然痘が出回り、洪水という大災害にも見舞われたとも言われている。だが洪水が起きたというはっきりした痕跡も発見されていないそうだ。

いずれにしても、わずか10年で長岡京から遷都した理由が祟りによるものとされていた。桓武天皇は早良親王の名誉回復のために、崇道天皇という追称を与えた。陵墓は大和の国に移された。




崇道天皇八嶋陵(奈良市八島町)の前に「八つ石」と呼ばれる巨石群がある。早良親王が亡くなる前に石が落ちた所に葬って欲しいと遺言し、9つ石を投げたうち8つが同じ場所に落ちたと伝えられている。事実かは不明であるが、これを動かすと祟りがあると未だに信じられている。

比叡山延暦寺は鬼門の方角に位置し、鞍馬寺と貴船神社を北に城南宮を南に、さらに羅生門を挟んで東西に東寺と西寺が配置されているのは祟りから護るためであった。西寺以外は未だに京都名所として知られている。比叡山麓には早良親王のみが祭ってある崇道神社もある。

関連動画
早良親王が崇徳天皇よりも最強の怨霊と言われる悲しい歴史を徹底解説!

悲劇的で恐ろしいイメージの怨霊だが、最近は不思議にコミカルな存在として親しまれてもいるようだ。

2014年から提供されている「AR長岡宮」というスマホアプリで、なんと早良親王の怨霊とも現地(京都府向日市)で記念撮影ができると話題になったのだ!!

コロナ禍の外出自粛が解除されまだまだ油断は禁物であるが、早良親王の怨霊に是非会いに行きたくなってしまいそうだ!

参考サイト
HARUKOの部屋 日本史ウォーキング 22.長岡京と平安京(平安時代)
歴人マガジン【平安京に遷都した理由】平城京から京都へ!桓武天皇の考えとは?
tabiyori【長岡京の謎と歴史】わずか10年だけ存在した幻の都があった!
産経ニュース【関西歴史事件簿】祟りか?桓武天皇の相次ぐ死 「平安」遷都きっかけ・・・藤原種継暗殺(下)
LINEトラベルjp 怨霊封じ!?奈良市南郊に点在する崇道天皇(早良親王)ゆかりの地探訪
Jタウンネット東京都 長岡京で「怨霊」と記念撮影?向日市の観光アプリ「AR長岡宮」、新機能は「怨霊退治モード」

(ふりーらいたー古都奈 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像© Wikipedia 長岡宮跡碑(京都府向日市鶏冠井町)

 

関連記事

最近の投稿

ページ上部へ戻る