デビュー当時、日本で初めてヒットしたことをきっかけとして日本に親しみを抱いたことで知られるクイーン。中でも、ボーカルであったフレディ・マーキュリーの日本への入れ込みようは半端ではなかったそうだ。
1975年にクイーンが初来日して以来、彼は日本文化に魅せられたと言われており、のちにメンバーのロジャー・テイラーも「初来日で野外の茶会を経験した時にフレディは日本と恋に落ちた」と話しているという。
来日のたびに、陶磁器や浮世絵、火鉢といった古美術を買い、自宅でも着物を着るほど気に入っていたという。宿泊場所はホテルよりも旅館を好み、ベッドではなく布団で寝ることを好んでいたとも言われている。
そして、彼のそのような日本への”愛着”は家にまで及んだ。彼は、ロンドンのアールズコートで「ガーデンロッジ」と呼ばれる邸宅に住んでいた。70年代末のこと、元々そこは英国式庭園に建つジョージ王朝の邸宅で、高い煉瓦米に囲まれていた場所であったという。
そこを買い取った彼は、内部を壊して自身の望み通りに改造し、内装を一から作り直したという。部屋数にして、実に20数部屋もある広さを誇っている。
なにより注目に値するのはその庭だ。茶室があり、桜のような花の咲く木が立ち並び、池には錦鯉が泳ぎ、石灯籠が置かれているという、まさしく「日本庭園」そのものなのである。
1966年にプライベートで来日していた彼は、庭造りの参考として小石川後楽園を訪れていたという。ロンドンに戻ると、彼は早速庭造りに取り掛かるが、この時日本人庭師として高原竜太朗という人物を雇うこととなった。
高原は、京都造形芸術大学を卒業後にロンドンへ渡り、帰国後は「踊る生け花師」の異名を取る生け花パフォーマンス、フラワーアーティストとして活躍していた。当時22歳であった高原は、イギリスでパフォーマンスを行なっている際に、フレディから庭園の制作を依頼されたのだという。1986年6月から翌年の2月まで毎日フレディ宅へ通っていたそうだ。
庭園制作に際してフレディのこだわりはとても強く、「茶室の瓦の色が京都で見たものと全然違う」と注意したほどであったという。茶室という空間は彼にとって特別な空間でもあったようであり、彼が亡くなる少し前までは、この茶室で曲を書き続けていたという逸話もある。
彼の邸宅は、パートナーであったメアリー・オースティンが現在も引き継いでおり、今も日本庭園は残されている。
【参考記事・文献】
【画像】フレディマーキュリーの親日エピソード5つまとめ!
https://our-friend-movie.com/freddie-mercury-shinnichi/#index_id3
Queenフレディ・マーキュリーの日本愛やボディガード氏の話など フレディ-2-追記:クイーン阪神淡路被災地へメッセージ
(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像 https://wnilsen.blogspot.com/2016/03/garden-lodge-logan-place-1-o-lugar-onde.html