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漫画家「鳥山明」伝説 実は漫画を描くのが苦手だった?!

日本漫画界の大御所、鳥山明が3月1日に68歳という若さで逝去した。訃報は、地上波メディアだけでなくSNS上でも大いに拡散され、多くの人々が衝撃を受けると同時に氏の早すぎる死を悼んだ。代表作『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』は、漫画作品のみならずアニメでも絶大な人気を誇り、その影響は日本のみならず世界へも広がっている。

また、ゲーム『ドラゴンクエスト』シリーズのキャラクターおよびモンスターのデザインを手がけたことでも知られ、それまでになかった水滴型スライムをはじめとして、マスコット的な愛嬌あるデザインに多くのプレイヤーが魅了された。

その人気ぶりを象徴するような彼にまつわる伝説は実に多い。『ドラゴンボール』の連載中はジャンプの発行部数600万部を突破するという快挙を成し遂げたほどであり、連載が終了した途端にジャンプの発行部数が急激に減少したとさえ言われているほどの影響力を有していた。

その人気ぶりは税収の関係から彼の住む愛知県清須市の運営にも大きな影響を与える規模であったと言われ、鳥山の生活を快適なものとするために、彼の家から名古屋空港まで直線道路を引いたという都市伝説まで囁かれたほどである。そんな鳥山明氏であるが、漫画家を志したきっかけは実に意外な理由であった。

子どもの頃から絵を描くのが好きだった鳥山は、数々のコンクールに入賞を果たすほどの実力を有していた一方で、漫画そのものを描く機会は無かったという。そんな彼が漫画家を志したきっかけは23歳の頃。当時入社していたデザイン会社を辞めて金銭に困っていたある時、母親に小遣いをせびるも断られ、なんと賞金目当てで描いたことも無かった漫画を描くことを決意した。

しかも、週刊少年ジャンプの新人賞に応募した理由も、はじめ週刊少年マガジンの新人賞へ送る予定が締め切りに間に合わなかったということであり、さらにギャグ漫画で応募したのはストーリー漫画と同額の賞金なのに半分のページ数で良かったから、というものであった。

我々がイメージする漫画家の走り出しとしてはあまりに雑とも思えるようなエピソードであるが、これが「世界のトリヤマ」の出発点になったと考えると感慨深いものがある。この時応募した作品は結局ボツとなったものの、編集からは「たくさん書けばなんとかなるかも」との反応があったということから、その萌芽は確かに見いだされていたようである。因みに、新人賞での受賞がないまま連載し、かつヒットを飛ばしたのは、彼と『奇面組』の作者、新沢基栄であったと言われている。

一見して不純ともとれる彼の漫画に対する姿勢は、後になってもずっと尾を引いていたようである。彼はめんどくさがり屋な性格でも知られており、『ドラゴンボール』にて超サイヤ人を金髪(モノクロでは白)設定にしたり、戦闘になると瞬く間に街を破壊させたりするのは、ベタ塗りや背景の書き込みをしなくて済むという理由からであったという。

この”めんどくさがり屋”の性分は他の作業にも波及し、切り貼りが面倒という理由でスクリーントーンもめったに使わず、さらにはネームを何度も描くのが面倒ということで下書きから始めるほどであったそうだ。

漫画を描くこと自体が元々不慣れであったことも原因であろうか、彼は人間ドラマを描くことを苦手としていたという。学校生活をあまり描かず、特に恋愛ドラマについてはかなり苦手としていたようだ。さらに、忘れっぽいということが重なり、『ONE PIECE』の作者である尾田栄一郎から『ドラゴンボール』のある有名キャラについて触れられた際、「誰だっけ」と答えてしまったことで驚かせる場面もあったようだ。

このように、漫画家を目指す人々からすれば「そんなバカな!」と思えるようなエピソードに溢れる彼であるが、一方でその画力については揺るぎないほどの高い評価を得ているのも事実である。シンプルながら洗礼された絵柄は、漫画の神様手塚治虫からも「上手すぎる」と評されたほどである。

漫画は苦手であった彼であるが、イラストについてはその限りではなく、カラーイラストを特に好み息抜きでカラーイラストを仕上げてしまうほどであったという。ただし、下手をすると原稿そっちのけでカラーイラストを描いてしまっていたため、編集部が定期的にカラーイラストを描かせてあげるよう枠を回していたほどであったと言われている。

彼に憧れて漫画家やイラストレーターを目指した人は数知れず、週刊少年ジャンプへの連載を目指す者は皆、鳥山明を目標にしているとまで言われていたほどである。そんな彼の伝説は、彼の生み出した作品と共にこれからも語り継がれていくに違いない。

※テキスト内敬称略

(Migawari 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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