徳川家に祟った妖刀・村正、幕末の志士は徳川を倒すためにあえて所持した?





2018年11月24日、長良川おんせん博覧会にて恒例の「山口敏太郎と行く妖怪ツアー」が開催された。ツアーの中で興味深かったのは桑名市博物館で開催されている「村正II」という企画展であった。好評につき2年前のpart1に続く企画展であった。

村正とは、伊勢国桑名(三重県桑名市)で栄えた刀鍛冶集団、そこで作られた刀の銘のことを指す。千手観音の申し子だと言われた初代・村正は千子派という職能集団を組織し、三代に渡り栄えた(五代に渡り栄えたたと言う説もある)。

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山口敏太郎と行く妖怪ツアー 妖刀 村正

初代・村正の父である赤坂左兵衛兼村は、もともと美濃国関の刀鍛冶であり、後に拠点を長良川の下流である桑名に移した。後に弟子筋は三河に移り、三河文珠派となり「蜻蛉斬」などを作ることになる。




村正の伝説は、天文4年(1535年)に遡る。徳川家康の祖父、松平清康が出陣中、 家臣の阿部弥七郎によって殺害されたことに始まる。弥七郎の犯行動機には諸説ある。当時、家中で弥七郎の父親・阿部定吉が織田方と内通しているという噂があり、馬が暴れている騒動を松平清廉により父親が討たれたと勘違いして主君を斬ってしまったと言う説と、陣中に敵方の間者が侵入したと思い込み、人違いで主君を斬ってしまったと言う説がある。

また、家康の父である松平広忠は、乱心した家臣の岩松八弥によって殺害されてしまった(怪我をしたのは事実だが、死んだのは数年後)。これまた村正であった。

また、徳川家にとって最大の悲劇と言われる天正7年(1579年)の長男・信康の切腹事件も村正が絡んでいる。織田信長により武田方との内通が疑われ、泣く泣く自分の息子に切腹を命じた事件であるが、その時の介錯に村正が使用されている。




徳川家康本人には祟りがないと思いきや、今川の人質になっていた時に短刀で指を負傷している。その時の短刀も村正であったとされている。さらに織田有楽斎の長男である織田長孝が敵将の首をあげたとき、使った槍を見聞していた家康は指に怪我をしてしまった。その槍も村正であった。

徳川家の家臣や大名は、忖度して村正を所持していた場合は「村」と言う銘を消して所持した。 一説には村正を所持することが謀反を意味していたと言われている。

当然、徳川に敵対するものは、自ら進んで村正を所持したと言われており、大坂の陣において、真田信繁が村正を投げつけたとも、慶安4年(1651年)に幕府転覆計画を企てた由井正雪も村正を使用していたと言われている。






幕末になると、倒幕を図る志士が先を争って村正を所持したと言われており、三条実美や西郷隆盛 、有栖川宮熾仁親王が村正の所有者である。多くの幕末の志士が村正を求めたと言われており、それが偽物が数多く作られる原因となってしまった。

現在、村正は刀剣乱舞などの影響により人気の刀なりつつあるが、もともとは高級な刀ではなく、庶民的な刀であった。現在でも短刀ならば200万から300万円で手に入ると言われている。

村正の祟り伝説はあくまで伝説であり、村正が桑名の刀であったため、三河の家康の周辺に溢れていた刀であった。また家康自身、村正のことをさほど気に留めていなかったらしく、尾張徳川家には家康が愛用していた村正が残されている。

また、村正の地元である桑名では「妖菓・村正焼き」という刀に見立てたお菓子を発売している。今や村正は町おこしの重要なアイテムとなっているのだ。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

写真©山口敏太郎撮影

 

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