昭和のレジェンドスーパースター、ピンク・レディー恐るべき芸能都市伝説

2017年12月30日、TBS系列で放送された「日本レコード大賞」に久々にピンク・レディーがパフォーマンスをした。久々といっても、39年ぶりという随分と長い期間のご無沙汰だった。小学生の時以来、レコード大賞で歌うピンク・レディーを見たのだ。

先日亡くなった阿久悠氏を追悼する特別企画としてヒットメドレーを歌ったのだ。思わずかみさんと一緒に見入ってしまった。やはり昭和の伝説、ピンク・レディーは素晴らしい。

ピンク・レディーは阿久悠氏が企画した日本テレビの番組「スター誕生」から生まれている。




もともとはヤマハボーカルスクールに通う地味な静岡県の女子高生2人組であり、そのユニット名も「クッキー」と言う控えめの名前だった。当初フォークディオとしてデビューする予定であったが、関係者の勧めもあってミニスカートを履いたピンク・レディーとしてデビューした。

デビュー曲の「ペッパー警部」は、76年の発売当初には60万枚というなかなかのヒットであったが、翌年にかけてミリオンセラーになった。その後は次々と大ヒットを飛ばし、9曲連続でオリコン1位を獲得している。またその一方で、PTAなどからの反発も大きく事務所やテレビ局、レコード会社に「ミニスカートを履いて、股を広げて歌うなど下品極まりない」などの批判が殺到した。

事務所はそれまで芸能界と全く関係がなかったスタッフで構成されており、クリーンなイメージがあったという。

なお、メディアへと頻繁に露出するようになった二人であるが、あまりにも多忙で睡眠時間は2時間から4時間となってしまい、乗り物で移動中に小刻みに眠る毎日になってしまった。

そのため、毎週のように出ていたTBSの「ザ・ベストテン」での出来事は全く覚えておらず、久米宏や黒柳徹子との会話も記憶していない。またある年などは、追いかけるファンが殺到するため「レコード大賞」の会場から「NHK紅白歌合戦」の会場までの道を封鎖したほどの大人気ぶりだった。

また、スタイルを保つためにウーロン茶を飲んでいると発言し、当時あまり一般的でなかったウーロン茶を消費者に広めることに貢献した。ウーロン茶の缶入り飲料を発売できたのは、ピンクレディーの影響によるところらしい。

また、UFOを「ユーエフオー」ではなく「ユーフォー」と発音し広げたのはピンク・レディーが初めてだと言われている。一説には都倉俊一の提案だと言われているが定かでは無い。(筆者は斉藤守弘先生から、テレビ朝日系列で放送されていたバラエティー番組でスタッフがそう呼んだのが習わしと言う説を聞いている)

結局、日本でのピンク・レディーブームが一段落した段階でアメリカ進出を図るが惨敗、81年を最後に活動に終止符を打った。アメリカ進出の失敗は「ピンクレディー」という言葉が商売女と言う英語的ニュアンスを含んでいたからだという風説もある。

しかし、以上のアメリカ撤退説も筆者は、真相は次のようであると同調している。




これは弊社スタッフの楊君(彼はアメリカのエンターテイメント業界に多くの友人がいる)から聞いた話であるが、当時アメリカ現地でピンクレディーのスタッフをしていた人物は次のように言っていたそうである。「(二人は)全米ネットワークでの冠番組が決まっていたにもかかわらず、ケイちゃんの当時に付き合っていたある日本人タレントの束縛があまりに激しく、ケイちゃんも泣く泣くこれを受けいれて、突然帰国してしまった」というのが真実という。

もし二人がそのままアメリカで華々しい成功をしていたらと想像すると、いつもなんとも複雑な気持ちになるのだ。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像『ピンク・レディー ベスト PBB-07

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