十二月になると、赤穂浪士のドラマや映画が多くなる。主君の敵を討ち、雪の中を涙の行進をする浪士たち。この名場面は冬のワンシーンと言ってもよいだろう。だが、赤穂浪士に纏わる不思議な話は多い。その幾つかを紹介しよう。
日中事変が勃発する寸前、昭和初期の日本において四十七士の忠義心が軍国主義の国威高揚に利用され、激しく喧伝されたことがある。
「赤穂浪士のように日本国に忠義だてしよう」
「最後の最後まで、どんなに苦しくとも戦おう」
日本中が、赤穂浪士のような になれよと、興奮し、一躍大ブームが訪れた。これが昭和の赤穂浪士ブームである。その頃、かつて吉良邸が建っていた両国の某町内では、不幸が続いていた。
変死。
病気。
事故。
どういうわけか、この町内だけ不幸が続く。いずれも、原因が不明の不気味な出来事であった。人々はこの不幸の連鎖に怯えていた。
「まるで、祟りのようだ」
「何か神仏に不敬でもしただろうか」
「そうなると、日本中が赤穂浪士ブームに沸いているから 吉良の殿様が怒ってるんじゃねえか」
「そうだ、そうだ。おいらたち地元だけでも、吉良の殿様を盛り上げようじゃないか」
そんな話がまとまり、両国の一角に、吉良屋敷の一部を復元した公園が完成した。すると、不思議なことに祟りは治まった。人々はいっそう、吉良の菩提を弔うようになった。今も観光客が訪れるスポットとなっており、付近で販売される「吉良まんじゅう」も人気を博している。果たして、吉良は本当に祟ったのであろうか、謎は深まる。
さて、同じ頃、田村町(現在の新橋四丁目)では浅野匠頭の切腹の地として、記念碑が建立された。
こちらは、こちらで浅野公びいきの町内であった。
「これで、浅野公も喜んでおられるだろう」
「まったくだ、有名な浅野匠頭にさみしい思いはさせるわけにいかねえ」
昭和初期の赤穂浪士ブームもあって、大変な騒ぎであったという。
付近には当時、浅野匠頭の首洗いの井戸もあったらしく、昭和初期までは、稲荷として残されていたという。
また、切腹した当時、その横にあったという「血染めの梅」「血染めの岩」「お化けイチョウの切り株」は、泉岳寺に寄贈され、保管されることになった。お化けイチョウの切り株は残念ながら関東大震災で焼けてしまい、現在は残っていないという。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)
赤穂浪士