今月14日、文化庁は奈良県明日香村のキトラ古墳の壁画から、四神の白虎が描かれた西壁、天井の天文図を9月23日から10月22日の間、村内の「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」で公開すると発表。
また明日香村の高松塚古墳、国宝の極彩色壁画も、9月23日から29日までの間、村内の仮設修理施設で公開するという。
昭和47年3月21日、明日香村で7世紀につくられた古墳が発見された。あの壁画で有名な高松塚古墳である。直径18mの巨大な円墳内部に施された壁画は、黄泉の国を描いたものとされている。
その高松塚古墳の関係者は過去に続々と死亡していた。やはり、墓を暴くものは次々と変死に見舞われるようである。
昭和47年5月21日高松塚古墳の発見で浮き足立った明日香村の観光課長のM氏が死亡した。M氏は観光資源である高松塚古墳の発掘に熱心な一人であったが、3月21日の発掘からちょうど2ケ月後の5月21日に死亡した。
M氏の死因は肺がんであったが、その日突然苦しみだして死亡している。21日という日付が関係者を戦慄させた。
惨劇はまだ続く、同年8月21日の朝、高松塚古墳の付近に住み、発掘の手伝いをしたKさんも急に苦しみだし、2日後に死亡した。
これまた21日の日付がからんでいるのだ。
更に翌年の8月21日、高松塚古墳のある上平田地区の総代MSさんが交通事故で死亡した。
そして4人目の犠牲者Nさんは高松塚古墳に最初のひと鍬を入れた発掘関係者であった。日頃から悪夢にうなされていたNさんは物置小屋で農薬を飲んで自殺している。
昭和49年1月4日、壁画を修復するため模写していた画家のWさんが交通事故で亡くなった。Wさんはちょうど壁画に描かれていた3人の貴婦人を模写している最中であった。
果たして高松塚を暴いた祟りは実在するのか、単なる偶然の連続なのか。ちなみに高松塚古墳の正式な住所は、明日香村上平田4444番地である。
解剖学の権威であった故島五郎大阪市立大学教授は、昭和47年に発行された高松塚古墳・中間報告書の中において、「埋葬された人物の頭蓋骨の破片すら、全く発見されていないのは甚だ不思議である」と報告している。
梅原猛氏は「黄泉の王」(新潮社)の中において、「高松塚の封印されていた怨霊は、弓削皇子の怨霊に違いないと思う」と推理を展開している。
つまり、高松塚古墳の被葬者は埋葬時すでに白骨化しており、その怨霊の復活を阻止するため、遺体から頭蓋骨を抜き取り、刀身のない鞘を添えて埋葬したと梅原氏は推測しているのだ。
この高松塚古墳の呪いから彷彿されるのが、「ツタンカーメンの呪い」である。筆者が子供時代は児童書などで、おもしろおかしく展開されていた定番のネタであった。
この「ツタンカーメンの呪い」に関しては、『と学会』の山本弘氏が明確に指摘している。「トンデモ超常現象99の真相」(宝島2000年5月9日)からその正確な指摘を引用してみよう。
「そもそも『ファラオの墓に触れる者には死が翼にのって素早く訪れる』などという碑文はツタンカーメンの墓にはなかった。それは当時のマスコミがでっちあげたものなのである」(原文ママ)
またファラオの墓に触れた者の中でハワード・カーターのみが生き残ったという風聞に対しても、
「実際には、カーターより長生きした者もいる。たとえば、カーナヴォン卿の娘のイブリン・ハーバードだ。彼女は封印の説かれた墓室に最初に足を踏み入れた三人のうちの一人(後の二人はカーナヴォン卿とカーター)であり、真っ先に呪いを受ける人物であるはずなのに、死んだのは発掘から58年も後の1980年、享年78歳であった。(中略)調査隊の大半は「1930年まで」どころか発掘後20年以上も生存しており、死亡時の年齢も、多くは65歳を超えている」(原文ママ)
つまり、ツタンカーメンの呪いはマスコミがでっちあげたネタであった。
だが、高松塚の場合は現実に周辺の関係者が死亡しているようで、まだ偶然であるとか、ネタであるとか断定はできない。今後も調査を続行する所存である。
(山口敏太郎事務所 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像『高松塚古墳壁画 西壁女子群像』