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転職&引っ越しまくり・・・日本探偵小説の父「江戸川乱歩」の驚きの逸話

日本の探偵小説の父の異名を持ち、名探偵明智小五郎、怪人二十面相などの生みの親としても知られる江戸川乱歩。1923年のデビュー作『二銭銅貨』は、日本における推理小説が海外の翻訳を脱する転換点となり、また「本格」のほかに「変格」と呼ばれる怪奇・幻想ジャンルの小説でも人気を博し、後世の今も推理小説やサブカルチャーに多大な影響を与え続けている。

筆名である「江戸川乱歩」が、アメリカの小説家エドガー・アラン・ポーに由来していることはあまりにも有名だが、最初の筆名は江戸川藍峯(ランポウ)であり、2001年に発見された「二銭銅貨」草稿にはこちらの名前が記されている。戦時下にて、検閲が激しくなり探偵小説が執筆不可能となった際には小松龍之介の名前で子供向けの科学読み物を書いていた。

さて、乱歩が「二銭銅貨」でデビューをしたのは20代後半のことであったが、当初は兼業・趣味の範疇としての執筆であったという。もともと作家デビュー以前には、大学在学中から様々な仕事を渡り歩いており、封筒貼りの内職、市立図書館の貸し出し係、貿易商、英語の家庭教師、タイプライターの販売、雑誌編集、新聞記者、ポマード瓶の意匠宣伝など、その職種は多岐に渡る。25歳の頃には、弟と二人で古本屋を営んでいたこともあったという。




まさに二十面相並とも言える職歴であるが、同時に乱歩は引っ越しの回数も多かったという。その数は生涯で46回と言われており、最後に住んだのが池袋の立教大学に隣接した土蔵付きの借家でここには亡くなるまで住んでいたという。子供の頃も親の都合により引っ越しが多かったそうだが、その気質が成人した乱歩にも染みついていたのかもしれない。

およそ31年という作家生活を送っていたという乱歩。だが、その年月すべてを作家活動に費やしていたかといえばそうでもなく、幾度となく休筆を繰り返しており実質活動していたのはそのうち14年であったと言われている。

その休筆の理由も、1927年には執筆した「一寸法師」に対し自ら愚作と評するほどの嫌悪を抱き休筆、1932年には全集の印税により当分生活に困らないということで休筆、1935年執筆していた作品の中断などによって嫌気がさしたため休筆。さらに1940年代は戦時下の検閲などの関係から探偵小説を手掛けられなくなり、以後10年近く書くことはなかったという。

人間の複雑な業を描くことにも長けていたという乱歩の作品は、こうした多様な経験によってもたらされたものだったのだろうか。

【参考記事・文献】
江戸川乱歩についてあなたがたぶん知らない7つのこと
https://scrapbook.aishokyo.com/entry/2015/10/21/193733
「江戸川乱歩」の真実をどれだけ知ってますか
https://toyokeizai.net/articles/-/137316
江戸川乱歩
https://dic.pixiv.net/a/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E4%B9%B1%E6%AD%A9

【文 黒蠍けいすけ】

画像 ウィキペディアより引用