筆者の細君が福岡県宗像市の出身であることもあって、筆者も毎年のように福岡を訪問している。細君の実家は宗像大社の氏子であったため、親戚からかつて宗像を統治していた宗像一族の跡目争いに纏わる血生臭い怪談を聞いたのが、この怪異伝承に触れたきっかけであった。
この呪いの連鎖で戦国時代から現在にかけて三百人以上の人間が死んだと言われており、現在でも祟りは継続中であるとされている。跡目争いに敗れた方の宗像一族は山田地蔵によって慰撫され封印された形にはなったが、昭和以降も時折怨霊による死者が噂されるらしい。
細君の親戚の言によると、山田地蔵の檀家から宗像大社の氏子に費用が安いという理由だけで変更した人物が急死したりする事例があるという。
地元では跡目争いに勝った勢力の子孫が主に宗像大社の氏子になっており、敗れ去った抵抗勢力は山田地蔵の檀家となった。つまり、山田地蔵から宗像大社への宗旨替えは霊的に見ると裏切り行為なのだ。
また、宮大工をやっている細君の親戚の証言によると、山田地蔵関連の某史跡の解体業務を依頼され、ばらしてみたところ、部材の裏側から無数のお札が出てきて、宮大工全員が絶句した事例もあったらしい。つまり、限りなくリアルに近い怨霊伝説なのだ。
この陰惨な事件は天文21(1552)年3月23日に、宗像正氏の正室・山田局とその娘の菊姫、4人の侍女が刺客によって惨殺されたことから始まる。
戦国武将であった宗像一族の跡目争いは、正室・山田局とその娘・菊姫を推す勢力と、陶晴賢の姪に当たる側室・照葉と息子・鍋寿丸を推す勢力によって行われた。姪を援護するため陶晴賢は家臣・石松典宗を通じて、野中勘解由、嶺玄藩に山田局と菊姫の暗殺を命じた。
ある夜、尋ねてきた二人の家臣たちに女性六人は惨殺された。戦国時代と言えども、腹違いの弟が姉やその母親、女官たち含め6名を殺害するという異常な事件に世間は震撼し、怨霊の噂が流れ始めた。
実行犯の嶺玄藩、野中勘解由はまもなく怨霊に苦しめられ怪死、石松但馬守の屋敷では数々の怪異現象が発生した。鍋寿丸の妹にも怨霊が憑依し半狂乱となり、母親である側室・照葉の喉元に噛みつくなどして暴れまわった。
この怨霊に恐怖した宗像一族は、日蓮宗の僧侶に依頼し”鍋伏せの呪法”により、怨霊たちの封印を図った。この”鍋伏せの呪法”とは怨霊の墓石に鍋を被せ封印する秘儀なのだが、墓石に被せた鉄鍋がバラバラに砕け散ったとされており、この時バラバラになった鉄の破片が山田地蔵に現在でも保管されており、参拝者は見ることが出来る。
この異常な事態に、宗像一族は愕然として6人の御霊を合祀して六地蔵を刻み、増福院と号して祀った。これが現在の山田地蔵である。
結果的に姉を殺害して跡目を継いだ宗像氏貞(鍋寿丸)は41歳の若さで病死し、子供がいなかったため宗像家は断絶。宗像本家を裏切って側室側についた家臣にも数々の不幸が起こったとされている。
今でも山田地蔵のご本尊開帳の日には、住職による怨霊談を聞く事が出来る。これは単なる伝説ではない。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)