偉人

家庭では厳格な父だった「高島忠夫」が死ぬほど苦手だったものとは?

高島忠夫は日本を代表する、司会者の一人として知られている人物である。

1952年から映画俳優としてデビューをするが、活動の中心をテレビに移してからは司会あるいはタレントとして活躍することが多くなり、『アメリカ横断ウルトラクイズ』『クイズ・ドレミファドン!』などの司会や『ゴールデン洋画劇場』の映画解説などをつとめた。

バラエティ番組においてはNGワードを連発したり、クイズ番組では司会にも関わらず答えを誤って言ってしまったりと、またそれによって他の出演者から叱られるなどコミカルな面もあった彼であるが、家族の中では非常に厳しい父親であったという。

俳優・タレントである息子の高島政宏によれば、子供の頃、家に客人が来た時に騒いでいたら、客の帰宅後にビンタを受けたという。また、欲しいと言ったものを買い与えるとしても、何かしら騒ぐなど粗相をすれば没収、返品、購入予定であった時は全部なしになるなどのしつけをされていたという。

彼の姪にあたるヴァイオリニスト高嶋ちさ子によると、彼女が「おじちゃまって、聖子ちゃん(松田聖子)とかトシちゃん(田原俊彦)とか会うの?」と聞くと、「バッハとかを弾いている人はそういう俗世間のものに耳を傾けちゃいけない」「バッハを聴く時は正座をしなさい」などというアドバイスを受けたという。この時彼女は、「話が合わない」と感じたそうだ。




さて、家庭では厳格な一面を持っていた高島忠夫であるが、実は飛行機が大の苦手であり、高島家では海外旅行が禁止されていたほどであったという。飛行機による”事故”への恐怖感も非常に強いものであったらしく、ある時フジテレビの好意でスペイン出身の歌手フリオ・イグレシアスに会えるということになったのだが、『死んでもいいから行こう』ということになり、家族全員で遺書を書いて弁護士事務所に渡し、さらに全員一度に何かしらで巻き込まれることを回避するため飛行機の便を二手に分けたほどであったそうだ。

さらに、この飛行機嫌いは仕事にも影響を受けた。1972年に公開された『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』にメインキャストとして出演していた彼だったが、グアムロケにて撮影が行なわれようとしていた際、東宝から妻の分の飛行機の席まで用意されていたにも関わらず拒否、一人日本に残り、結局撮影では現地の高島忠夫のそっくりさんを代役に起用することとなったという。

この時は共演者より顰蹙を買ったと言われているが、映画を観た本人はそれを見て笑ってしまったという。苦手なものへの徹底した拒絶もさることながら、現地でわざわざ代役を探したスタッフの対応に拍手を送りたい。

【参考記事・文献】
高島忠夫
https://dic.pixiv.net/a/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%BF%A0%E5%A4%AB
両家の“確執報道”の真相も初告白…高嶋政宏と高嶋ちさ子が高島忠夫への思いを語る
https://www.fnn.jp/articles/-/1073

【文 黒蠍けいすけ】

画像 ウィキペディアから引用