
本能寺の変で織田信長に逆襲し、国を変えようとした明智光秀だったが三日天下と呼ばれた儚い終わりだった。
だが光秀は生きていたという伝説があった!!
2022年9月21日に放送された『世界の何だコレ!?ミステリー』(フジテレビ系列、水曜放送)2時間スペシャルにて特集され、日本各地の都市伝説の1つとして取り沙汰された。
都市伝説大好きアイドルとも呼ばれるSKE48・須田亜香里が調査に行った。
本能寺の変からわずか11日後(天正10年6月13日)、羽柴(豊臣)秀吉に敗れた光秀は農民から討ち死にさせられたことになっていた。未だ京都に残された竹藪が現場跡となっている。
だがそんな簡単に討ち死にするような器の武将だったのだろうか!岐阜県山県市は光秀の故郷だった地であり、彼はこの地に逃げひっそり生き延びたことが現地では当たり前の伝説となっていたのだ。
なんと光秀公ゆかりの産湯の井戸が残されていた。明智家の先祖は山県市の大名に仕えていた。
光秀について記された古文書が江戸末期まであったが、なぜか行方不明となっている。その古文書によれば、光秀の家来である荒木山城守行信が買って出て光秀を名乗り身代わりになったと記されていたそうだ。
確かに一度天下を獲った武将が農民に討たれるとは無防備にも感じたが、家来によって生き延びた逸話ならありえなくもなさそうだ。
江戸時代の史料が所蔵された国立公文書館のツイートにも、光秀が名を変え美濃国に隠れ棲み、関ヶ原の戦いに参戦しようとした途上で溺死した事実まで記されている!
明智光秀の最期については様々な説がありますが、江戸時代に成立した『兵家茶話』では、光秀は山崎の戦いの後、名を変えて美濃国に隠れ住んでいたとされています。その後、光秀は関ヶ原の戦いに参戦しようとしますが、その途上で溺れ死んでしまったのだとか。 #麒麟がくる https://t.co/tUXGEP39mZ pic.twitter.com/6Z5zh7wETJ
— 国立公文書館 (@JPNatArchives) December 27, 2020
光秀は家来の荒木に深く感謝の意を込めて、荒深という苗字に改名していた。想像以上に深くリスペクトし合っていたことが伝わってくる!!
須田は「光秀公ってちょっと悪い人と言うか、冷たいイメージがあったんですよ!ちょっと意外ですね」とコメントした。筆者は冷血漢と言われる信長とは正反対に、光秀の方が情熱を内に秘めていたイメージがあるので須田の意見もまた意外であった。
光秀から17代目の子孫にあたる荒深誠市さんは、現在まで81年間も元気そうに過ごされている。貴重な家系図が大事に保管されている。
なんと荒深姓を名乗る家が、安土桃山時代に13軒もあったそうだ。恐れ多き信長の反逆者となった光秀を護るためのカモフラージュだった。
なんと最も大きな証拠となる光秀の墓まで建っている!確かに戦国時代からの墓石であったことが科学的に検証されている。
「歴史上の人物って教科書とかでしか見ないから、イメージだったりとか断片的でしか捉えられないけど、人柄も知るとやっぱり人間なんだな」と須田は感心した!
光秀を描いた肖像画には慶長18年(1613年)と記された一文があり、なんと本能寺の変(1582年)から31年後の段階で生きていたことが垣間見える。
意表を突く事実が意外な所に隠されていた!
ちなみに岐阜には明智駅が2つあり、可児市と日本大正村がある恵那市の2箇所である。どちらにも明智城跡と光秀公産湯の井戸跡がそれぞれ残されている。
筆者は何の疑いも持たず大正村を散策しに行ったことがあったため、山県市が光秀の郷だったとは驚いた!さらに可児市にもあるのは、可児が「かご(加護)」と読めるからなのだろうかという憶測もできる。
ゆかりの武将として光秀が未だに岐阜県民から慕われ続けているだけでなく、光秀を護る結束の強さには思わず感服せざるを得ない!
幸薄い武将というイメージもあったが、岐阜では誰よりも愛された武将だっただろうことに心掻き立てられた。
(ふりーらいたー古都奈 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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