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- 種や仕掛けも隠されていた!?大政奉還の舞台となった二条城

2022年2月23(水)に放送された『世界の何だコレ!?ミステリー』(フジテレビ系列)2時間スペシャルにて、徳川家康の宿代わりであった京都・二条城の驚くべき秘密が特集された。
天下分け目の関ヶ原の戦いから3年後となる1603年は、徳川家康が征夷大将軍に任命された年である。同年に建てられた二条城には特別な仕掛けがあったのだ!
二条城の堀と道路は一見平行しているように見えるが、俯瞰で捉えると3度ズレている。平安京は北極星を基準に建てられていたが、二条城は正確な真北の方角を意識して建てられたと言われている。
当時は珍しかった方位磁針が日本に伝来していたこともあってか、二条城だけ傾いて造られたのは徳川の新しい時代を意味していたことになる。
「これからは私がルールだ!と、そういうのをアピールする意味で、新しい北を示したわけですね!」とあばれる君が解りやすくフォローした。
画像©☆Ken☆ / photoAC
唐破風という最高格式による造りで、黄金に彩られた唐門にあばれる君思わず絶叫!さらに驚くべき仕掛けは、二条城の中心にある二の丸御殿の中である。なんと本来は撮影禁止エリアだと言う。
江戸時代は現代と違って照明が発達していなかったため、二の丸御殿の中はドラマに出てくるような城のイメージよりも薄暗い。
諸大名を待たせるために用意された遠侍という部屋の襖も、黄金で豪華絢爛だが虎や豹の絵が何匹も描かれている。しかも座っている大名達の目の高さに合わせて睨みつけているように描かれている。大名全員が心から服従しているとは限らないため、長い待ち時間の間に絵で威圧し続ける心理作戦だったのだ!
将軍と顔を合わす大広間に辿り着くまでの廊下が、襖で区切られジグザグな造りになっている。大広間まで道程を遠く感じさせることで、将軍との距離感まで謀ってあったのである。さらに大広間の襖に描かれた松まで、将軍との距離がより遠く見えるように描かれているのである。
しかも将軍は奥の廊下ではなく、大広間の奥の内扉から入場する仕掛けとなっている。これはあっぱれとしか言いようがない!!
だが坂本龍馬がきっかけで約300年という長い歴史を閉じることとなった。徳川慶喜が天皇に政権を返上した大政奉還も、当然この大広間で宣言されたと一般的には刷り込まれていた。教科書に出てくる「大政奉還図」(邨田丹陵筆)に描かれた襖の絵柄が松ではなく桜である。実は大広間でなく、二の丸御殿で最も奥にある黒書院という部屋の襖だったのだ。
画像©kimtoru / photoAC
黒書院は、身分の高い公家や親しい大名達が通される部屋であった。渋沢栄一が慶喜にインタビューした事実によれば、大政奉還前日に側近達を集めて相談していたそうだ。
「大政奉還図」は大政奉還が告げられた当日の光景ではなく、前日相談図が描かれていたのだった!あばれる君曰く、「描かれている事実が間違っているんじゃなくて、タイトルが間違っていた!?」ということであった!衝撃的事実である!!
さらにこの絵では、将軍の左側に刀が置かれている。普通は右側に刀を置くのが武士の作法であった。右側に置くのは敵意を示していないことを意味するが、左側に置けばすぐに刀を抜ける。例え身内の集まりであっても、反逆を恐れていたということだったのだ!
因みに京都の留守居役であった寺田喜三郎(越後・新発田藩)が記した古文書によれば、1867年10月13日に藩の代表である42名が二条城に集められ、大政奉還することが記された3通の文書を老中から見せられただけであった。大政奉還が告げられた時に、将軍が居合わせていなかったということだったのだ。
このことに意見がある者だけ、後で将軍と顔合わせができた。渋沢のインタビューによると、残ったわずか6名のうち4名が慶喜に称賛の言葉を伝えたそうだった。
もし大政奉還しなかったら内戦になっていただけでなく、それに便乗して海外からも攻められた可能性もあったようだ!!天下分け目の戦で築かれた長い時代を、最後の将軍となった慶喜が丸く治めて終止符が打たれたのだった。
二条城が時代の大きな節目となったわけだが、華やかに咲いて優雅に儚く散る桜のごとしであった!コロナ騒動が治まってからでも、一度は訪れてみたい城である。
ふりーらいたー古都奈
トップ画像©ウィキペディアより引用