末代まで禁じられた!?呪われし花

  画像©May_hokkaido PIXABAY

今年は桜の開花が例年より早まり、4月に入った早々からもう葉桜に変わってしまっていた。ゆっくりお花見もままならなかった人もいたであろうか。

だが多種多様な花々を楽しめるのはこれからの季節である。中でも百合の花が見頃になる季節もまだこれからだが、この美しい花には切ないながらに恐ろしいエピソードもあったのだ!

戦国武将・佐々成政の血を受け継ぐ佐々家では代々、百合科の花を植えたり生けたりすることが禁じられてきたそうだ。

越中(富山県)を治めていた成政には、早百合という美しい側室がいた。早百合は寵愛を受け子宝を授かったが、他の側室達からあらぬ噂を流されてしまった。よりによって厳しい寒さの中でさらさら越えした成政が、収穫を得られず帰ってきた直後にそのことを聞いてしまったのだ。

早百合のお腹の子が小姓と密通していてできた子であるとのことである。早百合の寝屋の戸の前に落ちていた火打ち袋がその証拠に仕立て上げられてしまった。




怒り狂った成政はその男を斬り、早百合の髪をつかんで神通川沿いまで引きずって行った。一本榎に早百合は吊し上げられ、一族共々斬り殺されたとされている。

早百合は死に際に血の涙を流しながら、「立山に黒百合の花が咲くときに、私の恨みであなたを滅ぼしましょう」と成政を呪ったという伝説である。

それから「ぶらり火」と呼ばれる鬼火や女の生首が、榎の辺りで風雨の夜に現われるなどの怪異が起こるようになったとも伝えられている。榎の周りを廻りながら早百合の名前を7回呼ぶと、早百合の怨霊が出るなどと恐れられている。


画像 佐々成政の愛妾・早百合姫がその下で斬られたと伝わる「磯部の一本榎」跡(富山県富山市磯部町)ウィキペディアより引用 CC 表示-継承 3.0

だが実際は早百合の家系は存続しており、成政の後に統治していた前田氏が誇張して流した噂とも言われている。




1587(天正15)年に九州征伐で手柄を立てた成政は、越中から肥後(熊本県)へ遷った。豊臣秀吉の正室・おねに推挙してもらったお礼として珍しい黒百合を贈ったことが、早百合の呪いと結びつけられている。

これを喜んだおねがお茶会で自慢をしたが、その後日に側室の淀君も黒百合を他の花と区別なく生けていた。何も珍しくもないと言わんばかりの態度におねは気分を害し、成政の評価が下がってしまった。

その年に起きた肥後国人一揆により成政は翌年切腹させられてしまったが、淀君が側室にされた年も同じく1588(天正16)年とされている。これでは辻褄が合わないので、この黒百合伝説は後付けの可能性がある。
だが成政が非業の最期を遂げたのがちょうど黒百合の開花時期であり、早百合を殺めてからわずか4年も経っていなかった。これは呪いのせいもあったのであろうか・・・

関連動画
市姫 朗読『黒百合伝説』

これらのことが黒百合の「呪い」「復讐」という花言葉の由来とされている。しかも黒百合は他の百合と違って決して香しい匂いではなく、下向きなので首が落ちるという意味で縁起が悪いそうだ。

贈り物としては不向きとされているが、「恋」という花言葉でもある。アイヌでは気づかれないように置いておき、意中の相手がそれを手に取ると両思いになれるという伝説もあるそうだ。

矛盾しているようではあるが、恋と憎しみは紙一重であることがこの花の本当の意味なのかもしれない!

(ふりーらいたー古都奈)

参考サイト
暮らしーの 黒百合(クロユリ)の花言葉!贈るのはNG?怖すぎる呪いの由来とは?
日本伝承大鑑 富山 磯部の一本榎
Good Luck 磯部の一本榎(富山市)早百合伝説の場所
warakuweb 富山の怪談・佐々成政にまつわる早百合伝説の真実とは?惨殺された美女の怨念?

 

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