死せる渋沢栄一、日本に生活保護を遺す

  画像『論語と算盤 渋沢栄一叢書

 例年よりやや遅れてスタートした、大河ドラマ『晴天を衝け』が好調のようだ。渋沢栄一と一橋慶喜のダブル主人公と言うのも、幕末を立体的に見せる試みとして意欲的で、好感が持てる。

 さて、劇中でどこまで描かれるかはわからないが、本稿では福祉家としての渋沢栄一についてご紹介したい。

 栄一は富農の家に生まれ、その後の人生もほぼ金に不自由することなく育った。しかし貧困を「自己責任」として切り捨てるようなことはせず、貧困は社会の歪みであると考え、「道徳経済合一説」を唱えた。

 著書『論語と算盤』には「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」とある。

 今、日本を含む世界を席巻している「新自由主義」とは、まさに真逆の考えだ。

「寛政の改革」で有名な松平定信は、江戸町人のために「七分積金」を設立した。天災に備えて、毎年二万両以上を積み立て運用、非常時にはここから御救米などが供出されて江戸市民を救った。江戸幕府は幕末の財政危機においてもこの金には手を付けず、幕府崩壊時には何と百七十万両が積み上がっていた。この運用を任されたのが、明治政府を退いたばかりの栄一である。





画像©ウィキペディアより引用

 栄一はこの百七十万両を、東京の近代化のために投資した。銀座の煉瓦街などがその成果である。そして、困窮者、病者、孤児、老人、障害者の保護施設として養育院(現・東京都健康長寿医療センター)が設立され、後に政界を退いた栄一自ら、その運営に携わった。

 ところが明治十五(一八八二)年、東京府議会において「養育院のような施設は、貧乏人をなまけさせるばかりであるから、廃止した方がよい」と、現代の新自由主義を先取りしたような意見が出され、栄一らの反対にもかかわらず、翌年には廃止が決定してしまった。

 ここで単純に「ならば俺が私財で運営してやる」とならないのが、栄一のしたたかなところである。

「東京府が養育院を事業として廃止すると言うなら、養育院を独立させて運営したい。しかし元を正せば、江戸町人のための『七分積金』で作られた施設であるのだから、独立するに当たっては、まとまった資金を要求する」


画像©ウィキペディアより引用

 こうして三万五千円(現在の価値で五億円以上)を供出させた栄一だが、養育院の運営にはとうてい足りない。栄一は運営資金を集めるため、鹿鳴館で日本初のバザーを開いた。出品者となったのは主に華族の奥様方で、大いに栄一の助けとなった。

 さらに栄一は、東京中の金持ちの家という家を、かたっぱしから訪ねて寄付を求めた。訪ねるときには現金や宝石をぎっしり詰めたカバンを持ち歩き、その中身をチラチラと見せながら「これはたった今、✕✕さんのところでいただいてきた分です」。

日本円 新紙幣 new Japanese yen bank bills
日本円 新紙幣 new Japanese yen bank bills / Japanexperterna.se

 もちろん大嘘で、栄一が用意した「見せ金」である。自伝によると、東京の金持ちたちはこのトリックにコロっと引っかかり、多額の寄付をしたが、あとでからくりを知ってこのカバンを「泥棒袋」と名付けたと言う。最終的にはもちろん私財もつぎ込み、二十万円の資金を集めた栄一は、無事に養育院を独立させた。栄一は晩年まで、養育院に足繁く通い、子供たちに慕われたと言う。

 他にも幾多の慈善事業を、時には私財をも投じながら進めてきた栄一だが、大正末から昭和のはじめにかけて、関東大震災、そして世界恐慌が東京を襲う。




 再び貧民たちが東京の町に溢れた。昭和四(一九二九)年、田中義一内閣は救護法(現在の生活保護法の前身)を制定するも、すぐに政権交代。後継の浜口雄幸内閣は緊縮財政を取り、救護法の施行を停止してしまう。これもまた最近どこかで聞いたような話だ。

 これに怒ったのが、晩年の栄一である。すでに九十才の老身を押して、浜口と面会した栄一は、「貧民を放置して、経済再生はあり得ません!」と「道徳経済合一説」を説いて、救護法の一日も早い施行を迫る。だが栄一はこの二年後に没し、救護法の施行はさらに一年後。栄一は救護法で救われた貧民たちを見ることはできなかったが、最後に大きな仕事を成し遂げたのである。

「青天を衝け」最終回は、ぜひこのエピソードで締めくくって欲しいものである。

(すぎたとおる ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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