「神社」を通して見る日本人① 宗教的な中心が“空っぽ”であることが日本人の心に謙虚さを生み出した

  画像 この先には… / machu.

“空っぽ”な神社の中心

 日本の神道は世界のほかの宗教と比べてだいぶ異質だ。古事記など神話交じりの歴史書はあっても教えを説いた統一的な経典はなく、神社で手を合わせている人の多くは祈りの対象である神の名前すら知らない。その神社のご利益は知っていても祭神の名前は知らないという人がほとんどだろう。

 また、神社の中心となる本殿もある意味変わっている。例外はあるが、一般的に本殿に偶像の類はなく、その代わりに御饌(神に献上した食事)や榊などの捧げものと、ご神体としての鏡などが置かれているだけ。意匠を凝らした仏像やきらびやかな装飾で彩られた仏教寺院と比べて非常に簡素といっていい。

 さらに、ご神体として多く採用されている鏡などは簡素を通り越して空虚ですらある。鏡はそれ自体以外の姿を映すものであり、自身の姿を持たない空っぽな存在だからだ。

 そうした、ご神体としての鏡は意識の本質を象徴しているのではないか。それは釈迦直伝の原始仏教を思わせ、ここでいう空っぽさとは仏教でいう「空」にも通じる。

 神道の持つ空っぽさは、伊勢神宮などで行われる式年遷宮にも表れている。知ってのとおり、伊勢神宮の外宮・内宮の正宮は式年遷宮として20年に1度建て替えを行っており、旧敷地は「古殿地」と呼ばれる空き地となる。これはまさに空っぽの空間であり、信仰の中心である正殿を定期的に空っぽにしているのである。

 そのように、日本の神道では空っぽさを中心として信仰が成り立っている。

 ちなみに現在、神道の最高神は天照大神とされているが、それは明治維新以降にそう定められたことであって、それより前は特に中心となる神はいなかった。これもまた神道の中心は空っぽであるということにつながってくるだろう。

伊勢神宮 内宮
伊勢神宮 内宮 / Nao Iizuka




国の中心も“空っぽ”

 神道の宗教的な中心が空っぽであることには、天皇という存在も重なってくる。

 歴史上、天皇が政治の実権に深く関わったことはあったが、総じて政治の実権を握らない「空っぽな中心」としての天皇を戴く形をとった時代のほうが長いだろう。天皇家は世界最長の王家といわれるが、それは政治の実権から離れた宗教的かつ「空っぽな中心」であったからではないか。

 また、天皇の王権を象徴する三種の神器も、誰も実物を見られないという意味で空っぽさにつながる。誰も見たことがないものを王権の象徴にしているのは、おそらく世界で唯一天皇だけだろう。しかも、三種の神器の1つは鏡である。

 現在の皇居の敷地についても建物があるのはほんの一部であり、東京の中心に広大な緑地帯が広がる形となっている。つまり、東京のど真ん中に空っぽな中心があるわけだ。
 
 そのように宗教的な中心や国の中心が空っぽだと、個々人もそれぞれ心の中に空っぽな中心があることを意識するようになり、それが日本人の謙虚さや優しさにつながっていると思われる。個人の中心に「我」がなければ謙虚さや優しさは自然に育まれていくだろう。

 また、それは日本列島をたびたび襲う自然災害に対する打たれ強さにも関係してくるはずだ。どんなにつらい状況に置かれてもなお、苦しみつつ現状を虚心に受け入れる人が多いのは、心の中心が空っぽだからではないか。

Shinkyo(Divine Mirror) 神鏡
Shinkyo(Divine Mirror) 神鏡 / prelude2000

心の中の“空っぽ”を埋めるもの

「空っぽ」という言葉にはマイナスの印象を持つ人もいるだろうが、先にも触れたようにそれは仏教の「空」にも通じるものだ。そして、鏡がその前にあるものを映し出すように、ここでいう「空っぽ」とは単に何もないことではなく、むしろ周囲のすべてを映し出すように自らの内に取り込む空間のような働きとなる。

 個人の心でいうと、空っぽな中心はその人の周囲の環境で満たされるだろう。そして自身を取り巻く人間関係、社会的環境、あるいは自然環境などを中心に置いた行動がそこから生じてくる。




 神社でご祈祷などを受け正殿まで入る機会があれば、ぜひご神体の鏡を見てほしい。あるいは神社によっては正殿の手前にある拝殿に鏡が置かれていることもある。いずれにせよ、その鏡に対する位置関係次第では自身の姿が映るはずだ。そのとき背後に鎮守の森があれば自然の緑の中に凛としてたたずむ自身の姿を見るだろう。

 神道には教えを説く経典はないが、こうしたある種の仕掛けにより、「我」を中心にするのではなく、「自然の一部として生きている私」を中心とした生き方を暗に説いているのではないか。

 ちなみに、かつて天皇家の宮中神事を司っていた伯家神道の流派には、天皇が日本の国土と一体になるという修行法が伝えられていたと聞く。これは天皇が「鏡」として日本の国土、そしてそこに住む国民を我が身に映し出すということでもあり、ここまで説明してきた日本独自の宗教的感性に通じるものといえそうだ。


画像 ウィキペディア 即位礼正殿の儀 CC 表示 4.0

日本人本来の善性――激動する世界で正気でいるために

 どんな物事にもプラスの面とマイナスの面があるもので、それはここで述べてきたことにも当てはまる。

 日本におけるユング心理学の権威とされる河合隼雄によると、西洋人が自我を中心としてまとまった意識構造を持っているのに対して東洋人は自我が不明瞭であり、そのせいで日本人の考えることは不可解であるとか主体性がないとして世界で非難されてきたという。

 しかし、実際には自我という中心の代わりに、意識と無意識を含めた心の全体構造の中心にある自己(セルフ)を志向しているのが日本人なのだという。ここでいう自己とはユング心理学において人の心が向かうべき到達点のことであり、いわば心の完成地点だ。

 ところがその自己へ向かうのは至難の業であるため、日本人の多くはその自己を外界に投影し、投影した対象のためなら命を捨ててもよいという考えになりがちだと河合は指摘する。そうした日本人の性質を為政者が悪用すれば、国や主君のためなら何でもやってしまう存在を生み出すのは容易であり、心の中心が空っぽであることのマイナス面があるとすればこれだろう。

 そのような危険性をはらんではいるが、西洋文化の影響で現代人の「我」があまりにも強くなっている実情を考えると、「心の中心が空っぽ」という感覚を取り戻すことにはメリットが大きい。それは日本人本来の善性を引き出すきっかけとなり、新型コロナウイルス感染症で激動するこの世界において正気を保つのにも役立つはずだ。

 不要不急の外出は勧めにくい情勢だが、もし必要な外出時に神社を通りかかるような機会があれば是非立ち寄って、良い意味での「空っぽさ」を体感してみてほしい。

(神谷充彦 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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