「となりのトトロ」から「鬼滅の刃」まで ――日本発のコンテンツが真の多様性を世界に発信する時代が到来

画像 屋久杉 / Jurico
欧米で唱道される「多様性」に感じる違和感の正体
ここ10年ほど、「多様性(ダイバーシティ)」という言葉が声高に言われるようになってきた。人種や宗教や性別で人を差別せず、多様な人々を寛容に受け入れる社会を作ろうという考え方だが、主に欧米から発信されてきたということもあり、多くの日本人にとってはいまだ馴染みの薄い言葉といえる。
また、この言葉を知ってはいても悪い印象を持っている者も多い。それは、自身が属するグループ(人種や宗教など)の権益のために「多様性を尊重せよ」といった主張をする一方で、ほかのグループに対しては不寛容な者が一部にいることが一因だろう。そのせいで「多様性」という言葉自体への反発まで生まれてしまっている。
そのように、欧米発の「多様性」の概念は各所でいさかいを生み、その意図するところとは逆に多様性を許容しない世の中を生みつつある。すでに終わってしまったが、米国のトランプ政権はその流れの一環として成立したものといっていいだろう。
こんなことになってしまうのは、多民族化が進行する欧米において、もともとそこにいた多数派が「多様性」という概念の道義的な正しさから、しぶしぶそれを受け入れているからだろう。心の底からの同意ではないから不満があふれるのは当然のことだ。
そのように内心は不満いっぱいのくせに、欧米の多数派は「多様性」を絶対善として世界を啓発しようとしている。無論、それは押し付け以外の何物でもないので、かえって人々の間に「多様性」に対する抵抗感を増してしまっている。
Rainbow Flag Wave / DrStarbuck
日本人は多様性を自然に受け入れてきた
その一方で、日本においては多くの人が自然な感性として元から多様性を身に付けているように思える。
日本人はシャイで、また英語などの外国語を話せないことを恥ずかしく思いがちなため、外国人に対してそっけない態度を示すことがある。また、その逆に珍しさから外国人にぶしつけな態度をとってしまう者もおり、そのせいで一部の外国人は「日本人は外国人嫌いだ」「差別的だ」と主張している。
しかし、よほどマナーの悪い観光客でもない限り、外国からの訪問者に対して「日本へようこそ」という歓迎の気持ちを持つ人が多いのではないか。事実、日本に長く住む外国人ほど日本人の懐の深さを実感するという。
もちろん、深く関わっていくと人間関係ではいろいろあるし、性格の不一致から問題が生じることもあるだろうが、少なくとも「外国人である」という理由だけで嫌うことは少ないように思われる。
女性やLGBT、あるいは障碍者への差別についても、昔のほうが差別意識は希薄だったといわれており、日本人がもともと多様性を自然に受け入れてきたことがうかがえる。
「鬼滅の刃」と多様性
さて、ここで注目したいのが日本のアニメが世界で広く受け入れられている事実だ。2020年末のNetflix(映像コンテンツ配信サービス)の発表では現在2億のユーザーのうち1億以上のユーザーがアニメを視聴しており、ハリウッド作品と並んで視聴ランキングの上位に食い込んでいるという。
日本のアニメに触れた外国人の多くは、ストーリーの背後にある種の多様性を見ているようだ。たとえば、ハリウッド作品には絶対善と絶対悪の戦いを描いたものが多いが、日本のアニメでは善人の中にも少しの悪があったり、悪人の中にも少しの善があったりする。
国民的漫画・アニメ作品となった「鬼滅の刃」でいえば、鬼たちには人であることをやめて鬼になるだけの理由(多くは悲しい過去)があり、また鬼のボスである鬼舞辻無惨にしても自らを天災に例えており、鬼という存在は単純に善悪では割り切れない存在として描かれている。
そのため視聴者は、悪とされる行為に手を染めざるを得ない側の立場にも感情移入することになる。まさに多様な視点から物語を受け取っていくことになるわけだ。
これは現代のアニメに始まったことではなく、菅原道真や平将門など時の権力者の手により非業の死を遂げた存在を神として仰ぐ御霊信仰などにも見られる視点だ。また、戦いや試合に負けた側に感情移入する判官びいきの感性も同じことだろう。
そのように、日本人は昔から物事を一面的ではない多様な見方で理解することに長けており、これが日本人とっての多様性だといえる。
画像©artworks_n photoAC
アニメが伝える多神教的な世界観
多くの日本アニメは多神教的な要素をふんだんに取り入れてもいる。たとえば、スタジオジブリの「となりのトトロ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」などは多神教的な要素の強い作品といっていいだろう。
こうした多神教的世界観では、妖怪や神々や精霊は横並びに描かれる傾向があり、何が善で何が悪かという概念もそれぞれの立場で大きく異なる。そして、その背景には善も悪もあくまで相対的なものでしかないという理解がある。
こうした作品を日本人は自然に受け入れているが、一神教的世界観が感性に染みついている欧米人にとっては非常に新鮮な価値観と映るようで、世界が今、日本のアニメに熱中しているのはこうしたことも一因になっていると思われる。
画像©スタジオジブリ『となりのトトロ(1988)』より
日本人の持つ多様性の感覚は森羅万象に開かれている
ここまで見てきたように、多くの日本人の心にはこうした多様性の感覚が奥底まで浸透していると思われ、それは森羅万象に神が宿るとする「八百万の神」や、長年使っている物品に神が宿るとする「付喪神」の考え方にもつながってくる。
その場合、人の視点ばかりでなく、自然や物品のほうから人を見る視点にまで思いを至らせていることになるだろう。つまり、日本人にとっての多様性とは人間ばかりでなく万物を対象としているのだ。
そんな日本人だからこそ、かつては大陸から入ってきた文化を柔軟に吸収し、明治維新後は欧米の技術や価値観を大胆に取り込んで近代国家を一気に形成することを可能とした。
ヨーロッパから訪日した宣教師が連れてきた黒人奴隷を織田信長が譲り受け、弥助(やすけ)と名付けて家臣として召し抱え、将来的に城を持たせることまで考えていたという話も有名だ。欧米人が黒人を奴隷として扱っていた時代に信長はこうした感性を持っていたわけで、まさしく多様性の極みのような話といっていいだろう。
多くの日本人はこうした多様性を尊重する感性を脈々と引き継いている。今後、さまざまなアニメ作品を通じてその多様性の感覚は広く世界へ発信されていくに違いない。
(神谷充彦 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)