本能寺の変の動機は謎だが原因は簡単

画像『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)ウィキペディアより引用 

 いよいよ、コロナで延期になっていた大河ドラマ「麒麟がくる」のクライマックスである。織田信長のキャラの立て方、比叡山焼き討ちにおける信長・秀吉・光秀のそれぞれの思いと行動など、(あくまで創作ではあるが)新しい歴史解釈を打ち立ててきた「麒麟」の、本能寺に対する新解釈に期待は高まる。

 本能寺の変には謎が多いとされてきた。しかし、実は謎なのは「光秀の動機」ただ一点であって、本能寺の変そのものには、大した謎はないのだ、と言うと驚くだろうか。

 では、本能寺の変が起きた天正十(一五八二)年の、日本の状況について見てみよう。

 この年初めに行われた甲州征伐によって、武田氏は滅びた。これにより、畿内の織田政権を脅かす勢力は完全に一掃されたと言ってよかろう。中国では毛利と羽柴秀吉が交戦しており、北陸では柴田勝家と上杉謙信が睨み合っているが、いずれも既に織田政権を脅かすほどの勢力ではない。関東の北条政権はすでに織田政権に服属している。東北は伊達政宗、九州は島津が伸してきてはいるが、未だ覇権争いが続いている。四国をほぼ統一した長宗我部元親は、すでに織田政権との交渉に入っている。誰の目から見ても、織田政権の日本統一はもはや秒読みであった。


画像©momokota 明智光秀像 明智城跡




 

 続いて、織田軍団の有力武将の配置を見てみよう。この時期の信長はいわば「方面軍司令官」制度とでも言うべきものを取っており、織田家の有力武将はそれぞれ織田軍団の兵を率い、担当地域の攻略や支配にあたっていた。この時点での配置を見ると

・明智光秀--丹波を攻略し、畿内方面軍司令官を務める
・羽柴秀吉--中国方面軍司令官を務め、毛利家と交戦中
・柴田勝家--北陸方面軍司令官を務め、上杉家とにらみ合う
・滝川一益--関東方面軍司令官として、旧武田領の支配、及び関東北条氏との交渉を担当
・丹羽長秀--四国方面軍司令官として、出兵準備中

 そう、畿内には、明智光秀と丹羽長秀しかいないのである! ただし、もちろん信長も馬鹿ではない。親衛隊もいるし、安土には安土城、京都には二条城があって、何かあればすぐに籠城できる準備も欠かしていない。そもそも、光秀が単独で動かせる軍勢はせいぜい数千。万単位の軍勢は、信長から与えられない限り動かせない。


画像 織田信長像 ウィキペディアより引用

 いよいよ、本能寺の変が近づく。光秀は信長から、秀吉の与力を命じられ、信長から少なくとも一万(二万から三万 との説も)の軍勢を預けられる。そして五月二十九日、信長はわずかな供回り(数百)のみを連れて上洛、常宿である本能寺に入った。

 念のため付け加えておくと、本能寺は信長が常宿にするくらいであるから、堀や塀など、それなりの防御設備があり、信長が現実的に心配していた、少数の暗殺者による襲撃を阻止するには十分であったし、本能寺で防ぎきれなければ、二条城に籠城するくらいの算段はしていたであろう。

 しかし、光秀の率いる万単位の軍勢(繰り返すが光秀の手勢ではなく織田家の軍勢である)に対処する用意はなかった。しかも折悪しく(光秀にとっては折良く)嫡男・信忠も京都に滞在していたのである。

 光秀がどの時点でこの現実に気づいたかは定かではない。少なくとも、光秀(あるいは他の誰か)が意図的にこの状況を作り上げたとは考えにくい。間抜けな話だが、信長は「うっかり」していたのである。

「天下を取りますか(Yes/No)?」

 光秀はYesをクリックした。

「敵は本能寺にあり!」

 光秀指揮下の織田軍には、それなりの混乱があったことだろう。彼らは中国攻めを命じられて集まったのだから。しかし織田軍は、光秀の指揮に従った。本能寺の変に参加した織田兵は後に

「徳川家康を討つと言われていた」

 と証言している。


画像 『本能寺焼討之図』(楊斎延一 画)ウィキペディアより引用




 こうして本能寺の変は決行され、信長は自刃した。本能寺を制圧した光秀は、直ちに二条城の信忠を討つ。すでに信長は家督を信忠に譲っており、信忠を取り逃がせば、織田家は大きな混乱なく再起する。ここまでの光秀はさすがであった。

 誤算だったのは、信長の首を取り損ねたことである。信長の首を取って晒していれば、変後の諸武将の動きは、全く違ったものとなっていたであろう。もちろん信長はこのことを十分理解していたから、火薬で遺体を粉々に吹き飛ばしたのである。

 変後、光秀はあまり大きな動きを見せていない。当然である。何しろ突然の話だったので、後の準備などしていたわけがない。光秀としては

「信長・信忠父子の死が知れ渡れば、各地の反織田勢力が勢いづく。とても畿内にとって返すことなどできはすまい」

 と考え、ゆっくりと新体制の構築に取りかかるつもりだったのであろう。事実、甲斐の滝川一益は旧武田家の国衆に甲斐を追われ、柴田勝家は上杉家の猛反撃に拘束された。第二の誤算は、秀吉が中国大返しにより、わずかな日数で畿内にとって返したことである。もちろん秀吉は

「上様(信長)ご無事」

 を喧伝する。光秀の手にはそれを否定する材料、つまり信長の首がない。戦う前から勝負はついていた。山崎の戦いに敗れた光秀は、落ち延びる途中で土民の落ち武者狩りに遭い、落命した。

 つまり本能寺の変の原因は

「選択肢が出たのでYesをクリックした」

 からであり、その後天下を取り損ねたのは

「信長の首を取り損ねた」

 からだったのである。ご理解いただけただろうか。

(すぎたとおる ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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