なぜ日本人は犬に服を着せるのか?

上記画像©Mylene2401 PIXABAY

「ハリウッド映画に笑われた犬の洋服」

先日、観るでもなしに、衛星放送であるハリウッド映画を観ていると、登場人物たちがこんなやり取りをしていた。FBIの捜査官が事件の目撃者に質問をしている場面である。

FBI捜査官「その人物の特徴は何かありましたか?」
目撃者「ちっちゃな犬を連れていたよ。洋服を着せられた。ほら、日本に行くと、ウジャウジャいるやつさ」

アメリカ合衆国は、世界に冠たるペットた大国であり、推定で約8千万匹の犬と、1億匹の猫が人間に飼われているという。そのアメリカにおいても、犬に服を着せるという行為は、奇異なものだということが、これでわかる。

そもそも、動物は特別に品種改良をされた、無毛種の犬猫を別にしたら、服などというものを必要としない。必要とするのは、我々現生人類である、ホモ・サピエンスだけである。

我々ホモ・サピエンスがなぜ、体毛のない“裸のサル”となったのかという話は、長くなるので割愛するが、とにかく、動物に無理やり服を着せるという行為は、奇異を通り越して、動物虐待として認識をされいる。

つまり、日本人は恒常的に犬の虐待をしていると、見られているらしいのである。


画像©Sherry Galey PIXABAY

そんな、バカなと思われるかもしれないが、日本でも人気犬種であるゴールデン・レトリバーは、原産国であるイギリスからは、今もって輸入がほぼ出来ていない状況である。(日本で多くみられるゴールデン・レトリバーは、その殆どが、アメリカ系犬種である)

理由は動物愛護にうるさいイギリス人たちが、「日本人は犬を虐待しているから、輸出はできない」と言い張っているからである。

話がちょっと横にそれるが、動物には人間との関わり合いには関係なく、独自の権利がある。と、いう画期的な動物愛護法を、世界で最初に設定したのは、ナチスドイツである。

いうまでもなく、これは総統たるアドルフ・ヒトラーの哲学であり、その後に彼がやらかしたことを考えると、なんともいえない気持ちになる。

「感情移入という、死に至る病」

さて、ではなんでまた日本人は、犬に服を着せているのであろうか。これに関して、示唆に富むエピソードを3つ紹介したい。

第二次大戦のさなか、捕虜となったアメリカ兵捕虜に対して、捕虜収容所の陸軍軍曹が、その境遇に深く同情をして、自分が菜園で丹精込めて作った、ゴボウを食べさせてやったところ、終戦になってその捕虜たちから、木の根っこを食べさせられたと訴追され、C級戦犯として裁判にかけられて、捕虜虐待の罪で有罪になり絞首刑に処せられてしまった。

ある冬の日、金魚を飼っていた人が、こんなに寒くては金魚もつらかろうと、ヤカンのお湯を金魚鉢に入れて温めてやったところ、金魚は煮えて死んでしまった。

日本で働いていたイスラム教徒が亡くなったので、その会社の社長がかわいそうに思い、最高級の白木の棺に収めて葬儀をとりおこなってあげようとしたところ、遺族たちがこんな粗末な木箱に入れたと激怒をして、大きな騒ぎになってしまった。

いかがであろうか。

多くの読者は、一番目の話を、人の情けを知らない理不尽なことと感じ、二番目の話を物の道理をわきまえないバカげたことと思うだろう。そして、最後の話を異文化間の理解のむずかしさを感じたのではないだろうか。

確かにそうではあるのだが、この三つのエピソードに底通することは、他人というものを相対的に見ることがないことでおこった、一方的な感情移入による悲劇なのである。

この日本人特有の、感情移入の文化について、最初に指摘をしたのは、評論家の山本七平氏と京都大学人文学研究所教授であった、相田雄二氏であった。

この二人に共通していることは、第二次大戦下に帝国陸軍の将兵として、南方戦線で戦い、敗戦と同時に連合軍の捕虜となり(厳密には、日本が国家として降伏してしまったので、捕虜とはいえないのだが)、収容所生活を送ったことである。

 

この経験から、山本七平は『私の中の日本軍』『ある以上体験者の偏見』、相田雄二は『アーロン収容所』という名著を残している。

細かい内容は、原本にあたっていただきたいのだが、二人がこの環境で得た考察に、日本人の他者に対する一方的な感情移入というものがあった。

占領地の住民に対して一方的に、良かれと思って、日本のやり方を押しつけてしまい、結果反感を持たれてゲリラ活動や、連合軍に内通をされてしまったりした事例があまりにも多かったからである。




「現代まで生き残った人を特別視しないアミニズム」

以前、京都市を訪れたイギリスの美術史研究者がいた。彼は、一通り寺社仏閣・美術館をめぐり、大変に満足をして帰国をしたのだが、その彼が京都で一番感激し、驚いたのは、建築でも庭園でも、仏像でもなく、洛北に位置する芦生(あしう)の森であった。

芦生の森というのは、京都市の北東にのこる原生林のことである。世界の大都市の中で、こんなにも都市部の近くに原生林が残っている例は皆無なのだという。

宮崎駿監督の【もののけ姫】を観た方なら、すぐにおわかりいただけるだろうが、原始の森はアミニズム(精霊信仰)を生む。

この原始的な信仰には、人間の絶対的な優越思想はない。自然・動物・神・そして人間は横並びで存在をしている。ユダヤの民が生んだ唯一神が、己が似姿に作った万物の霊長という人は、存在しないのである。


画像©Bibi974 PIXABAY

むずかしい理屈より、昔話に出てくる人と、キツネやタヌキ、または鶴やキジの関わり合いを観てみればいいのだ。

ヨーロッパと中近東、インドも中国も、城塞都市近郊に原始の森は残っていない。全て切り倒され、あるのは整備された農地や、牧草地、そして二次林。悪くすれば、広漠とした砂漠だけである。

日本だけが例外としてこれがあるのは、水害対策や、稲作のための水源確保、そして聖なる山への信仰心があったからに他ならない。

その原始信仰の上に、やがて大陸寄り渡来した、仏教が乗っかることとなった。仏教はいう、【衆生みな仏性あり】と。

すべての生き物には、分け隔てなく、仏となれる本質が備わっている。新しい、人と自然との平等主義である。

「肉食の思想について」

歴史学者の鯖田豊之の著書に、『肉食の思想』という名著がある。

ヨーロッパ留学の経験者である著者が、在欧中に経験した食肉文化と近代について、考察したものである。かいつまんで言えば、牧畜を除いては食生活というものが成立しないヨーロッパにおいて、(農地の土地面積当たりの生産性がアジアなどと比べたら、極端に低いために、家畜を食べなければならなかった、中世のヨーロッパでは、ドングリを食べる豚が重宝された)、人と同じように乳を飲み、飼育している人に慣れてきミーミーと寄り添ってくる、哺乳類を屠殺してたべるには、人と動物は全く異なるものであるとする、断絶の思想が必要であった、と結論づける本である。

キリスト教は、「汝、何を食べ何を飲もうとも心煩わせることなかれ」と教える。それは、全ての生き物は、ただ人のために全能の造物主たる神が、作りたもうた存在だからだと。

この思想は我々日本人のほとんどには受けいられていない。

キリスト教徒の日本の人口における比率は、その布教が公認された明治の初年から、今日に至るまで、ずっと1パーセントを超えずに推移し続けている。

「同じだから服を着せる」

人と動物は断絶をしていない。だから、肉食文化が入ってきたとき、食肉業に携わった人々は、差別の対象になってしまった。

そして、断絶をしていないからこそ、一方的な感情移入がたやすく、犬に服を着せる文化が定着しつつあるのではないだろうか。

そして、この感情移入をし易い、強い同質性と、それを醸し出すに不可欠な同調圧力は、やはり労働力の集約によってでしか成立しえなかった、植物学的な北限地における、稲作であったのだろう。

(光益 公映 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

 

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