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大和ことばに星の名前が無い理由とは
はじめに、皆さんにお聞きしたい。貴方は日本語の星の名前をいくつ知っているだろう?
言っておくが、火星とか金星といった名称は、中国か伝来した漢文・漢語のものであって、日本古来の言葉、つまり大和ことばではない。
と、なるといったいいくつくらいの星の名前を、思いうかべられるであろう。答えをいってしまえば、一つだけしかないのである。
それは“昴”(すばる)である。
昔、谷村新司の歌で大ヒットしたので、ある年齢以上の方々にはなじみのある名であろう、天文学ではギリシャ語のプレアデス星団とよばれる星々の集まりである。
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古事記と日本書紀に星の名前が出てこないわけとは
星の名前が無い。国の公文書であった古事記・日本書紀においても星の名前は昴以外何も出てこない。
これは古代化からの文明を持つ民族・国語においては極めて奇異な現象なのである。これに関して、日本は湿気が多くて、星が見えにくいので人々は星をよく見ることができなかったので、星に名前を付けるという習慣がなかった、のだという説があるが、この説はかなり苦しい。
そもそも古代においては平均気温は現在よりも、2度近く低く寒かったのである。
古代の日本がほかのアジア諸国に比べて、一年中湿度が多いだとか、雲が多いなどということはない。私の子供のころだって、まだ空気は澄んで、ネオンも街灯も少ない日本の空には、多くの星々が輝いていた。
ではなぜ星に名前をつけなかったのか?
星というものに実用性を求めるとしたなら、まず、航海にさいしての目印ということがあげられる。もちろん大陸の平原を移動する狩猟民や、時代は下るが遊牧民においても同じである。大事な目印なのだから、それぞれに名をつけ、星々を組み合わせて星座という物もつくっていことになった。
全ては、安全に集団が移動するための手段である。と、するならば、日本人というものは、少なくともこの列島に定住をしたいろいろな民族たちは、いったん腰を下ろしてしまったならば、あまり移動というものをしなかったのではないだろうか。
移動をしないですむということは、住居の確保と食料調達が比較的安全かつ潤沢であった証拠である。人類の特徴はその移動性の高さだというところから、ホモ・モーベンス(移動する人)という概念があるが、その意味においては、我々の先祖はホモ・モーベンスをやめてしまったらしい。
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星と航海と美意識
次に暦に関するものもあるのだが、暦はやはり月と太陽の運行を中心にしたものなので、星はわき役ということになる。そもそも物に名前を付けるということは、それと他のものを分けて認識をするということである。
日本人はそれをしなかった。
つまり、星空というものは一体のものであり、海と同様にある部分を区切って認識をされるものではなかったということになる。唯一、昴(プレアデス星団)に注意がいったのは、小さくこまごまとした12ほどの星々が、肩を寄せ合ってたたずむ姿が、人間の家族や集落の姿と重なったからなのではないだろうか。
名前が無いということと併せて、日本語、日本人の意識に欠落していることがある。
美、である。星のように輝く・君の瞳は星のようだ・などというもの言いは、明治になってから欧米の文物がなだれ込んできてから、日本語に現れた表現である。
では、日本人は星を美しいものだとは思わなかったのだろうか。
そうではないだろう、危険な移動をしなくなった(特に航海)日本人には、星は貴いものではなかったのではないだろうか。
貴いものは、日々の恵みをもたらす太陽と、農業の指針となる月だけだったに違いない。
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アイヌの星座と漂泊の民サンカの星
ここまで、星と日本人の関連性についてのべてはきたが、我が国においても星に強い関心をもっていた人々が二つある。
一つは、今は北海道だけにその拠点を持つアイヌの人々であり、もう一つは我が国の中で特異な文化と伝統をもった、漂泊の民サンカの人々である。
アイヌの神話・伝承には多くの星が出てくる。
先に述べた昴に関しては、【七人の働き者の男と12人の怠け者の女】という話がある。七人の働き者の男とは、オリオン座のことであり、12人の怠け者の女とは昴・プレアデス星団のことである。
この話は星空を海に見立てて、船で漕ぎあがるものであり、アイヌの文化に航海と漁猟が欠かせなかったことを如実に物語っている。
一方、漂泊の民サンカは航海をしない、山の民である。ただ彼らは山間部を非常に長距離いどうする。以前放送されたBS朝日でのインタビューでは、秩父のサンカの女性たちが、川遊びをしようと今の世田谷区付近の多摩川まで行き来をしていたことが語られていた。
彼らが夜間の移動をするとしたら、やはりその目印は星であったのではないのか。
事実、明治以降全国民に苗字の使用が義務付けられたとき、サンカの多くが星という字を使った苗字を選んだ。これは現在でも同じで、星・赤星とか星野などという苗字は、ほぼすべてがサンカにルーツをもつ人たちのものである。
画像©ウィキペディアより引用
星を観なかったから地動説を信じられた日本人
星を見ない、観ても特段には貴ばないとなれば、もちろん神聖視もしない。一部、天台宗や真言宗の密教では星を祭るが、これは一般民衆や、権力を持つ武士階級にはどうでもいいことであった。
そのことが、後年日本にとって幸運をもたらした。
近世になって、地球を中心とした観念であった天動説にたいして、科学主義の地動説が唱えられた。ヨーロッパではキリスト教の教義に反するとして、多くの天文学者が異端審問にかけられ拷問死や火あぶりに処せられたが、日本では、驚かれはしたものの、ああそうですかという感じで、すんなりと受けいられたのである。
この現実から遡って考えてみれば、我々日本人は人下の存在の上に覆いかぶさる、神秘的な権威というものにはなじまず、それが世俗的というより、もっと卑近な人間関係を中心とした、道徳と文化をはぐくみ、近代化というものに適応をしたのではなかろうか。
明治の文豪、夏目漱石の代表作「草枕」にはそのことを端的に表す冒頭の文章がある。それを引用して、この話を締めくくりたい。
『山路を登りながら、こう考えた智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう』
(光益 公映 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)