なぜ徳川将軍は、江戸の空に花火を打ち上げたのか?

画像©Jana V. M. PIXABAY

夏の花火はお盆の送り火

このところのコロナ禍のために、今年は全国各地で夏の風物詩の代表格である、花火大会が中止に追い込まれてしまっている。まことにもって残念なことではあるが、よく考えてみるといったい何で花火大会というものを夏のさなかにおこなうのだろうか、不思議な気がする。

上空に打ち上げられる花火を綺麗にみるなら、季節は空気のすんだ秋か冬の方がいい。(事実、去年では全国で24か所も冬の花火大会を行っている)

ではなぜ、夏に花火大会があるのかといえば、これはお盆の迎え火・送り火なのである。元々は江戸で猖獗を極めたコレラの被害者をともらう水神様のお祭りなのだ。

『川開き』のある旧暦の5月だったものが、夏の納涼期間中ならいいということになり、ついにはお盆と合体をした。ご先祖様が、年に一遍あの世から戻ってくるときの道しるべとして、火をたくという先祖崇拝の風習が仏教にはいって広まったものである。

有名な送り火としては、京都の五山の大文字焼きがあるが、その嫋やかさからしたら花火の送り火というのはかなり荒っぽい感じがする。なにしろ江戸は、征夷代将軍を首班とする軍事政権たる幕府の首都である。なにごとも都と比べれば勇ましいことが好きなのである。

そもそもが、この江戸の花火というもは、幕府の鉄砲方が備蓄していた火薬のうち、古くなったものを花火師に払い下げたことが始まりである。いってみれば廃品の再利用だったわけだが、花火の人気とともに廃品どころか、職人が新しい技術を披露する晴れ舞台となった。




江戸の市民の熱狂と陶酔と

江戸の花火といえば、打ち上げ花火をイメージするが、もともとは家康ゆかりの遠江の国の抱え筒式の花火であった。

家康自身、日本で最初に花火を見た人間ではないかなどといわれるが、(明の花火士とイギリスの公使と一緒だったといわれている)事実はどうであれ、この時期に日本に大陸の明から花火が入ってきた。

実用的なものを好んだ家康がこんな花火を喜んだのは、やはり大変に綺麗なものだったからであろう。

この美しい炎の演芸を江戸の市民(町人だけではなく、江戸に暮らす武士をも含んでこう呼びたい)たちは、お盆の迎え火送り火にしたらどうだろうかと思った。江戸を鎮魂の都と呼んだ人がいたが、家康をはじめ多くの身内たちを亡くしていた武家の人間たちの心情からしたらそれは当然のことであったのだろう。

時代が下り、打ち上げ花火ができたとき、それは躊躇なく天空にかける送り火となったのも頷ける。とはいえ、そこは市民文化の爛熟期を迎えようとする江戸である。

もっともらしい理由よりも、華々しいスペクタクルが好まれていった。花火は炎を扱う関係上、隅田川の流域と海岸線だけにかぎって打ち上げの許可がおりた。

今にまで残る隅田川の花火大会のはじめであるが、川の上なら防火上も視覚上もさえぎるものがなく安心して観ていられるというわけだ。この時代の打ち上げ花火は、現代のもののように、華やかな色のついたものではなく、純粋に黒色火薬の燃焼するいろである“炭火色”であり、打ち上げられる速さも、一時間に数発というひどくのどかなものであった。

のどかであるために、金持ちは川に屋形船をくりだし、飲食に興じながら花火見物をしていた。そのあいだを花火屋の御用聞きの小舟が走り回り、旦那衆からのリクエストに応えて花火屋に伝えて、次の打ち上げる種類が決まった。

ちなみにそのお値段だが、屋形船を仕立てるのに五両。花火のリクエストは一発につき一両であった。そんなお金持ちではない一般人はといえば、川岸やさらには隅田川にかかる橋の上に群がって花火見物をした。

見物といっても、こちらはあまりのどかなものではなく、橋の上に文字通り立錐の余地がないほどに、ぎゅうぎゅう詰めのひとだかりがした。結果、永代橋の崩落といった大事故が起こったりしたが、だからといって江戸市民の花火熱が冷え込むということはなかった。

まあ、懲りないといえば懲りないのだが、同じことが明治の末期にも起こり両国橋の欄干が崩落している。


画像©koji1106

将軍の花火と大名の花火

江戸の花火が、幕府の中古の火薬の払い下げから始まったことは冒頭に書いたが、幕府以外でもこの“武士用火薬”を使って花火を打ち上げていたところがある。

大名である。

火薬は武力のかなめであるために、各藩は製造と備蓄に数量規制が課せられていた。だが、御三家だけは別格で、製造備蓄ともに自由にできた。当然のごとく廃棄される火薬の量も多く、じゃあ、うちでも花火を上げようかという次第になってしまった。

結果、こちらの花火も大人気となった。

となると、御三家以外の大名も、「ちょっとやってやろうか」という話になっていき、幕府に対する遠慮はあるものの、隅田川沿いに屋敷のある各藩では盛大に花火を上げるようになっていった。

中でも有名だったのは、仙台藩・伊達家の花火であった。仙台藩は表高は62万石ほどだったが、その後の発展で実録は100万石を超えてるようになっていた。

なにせ、伊達者の語源である藩祖伊達政宗以来、派手好みの家であるので、派手派でしい花火を打ち上げていたと記録されている。ちなみに英語のdandy・ダンディーの語源は、この日本の伊達者からだとする有力な説がある。それ以外に語源が見つからないのだそうである。




日本教としての花火大会

『日本人とユダヤ人』『空気の研究』でしられる評論家の山本七平氏の著書に『日本教について』というものがある。

掻い摘んでいえば、それが神道であれ仏教であれ、はたまたキリスト教であっても、日本人信仰のすがたは、基本的にきわめて伝統文化・共通感覚の拘束が強く宗教の原理主義的な教義から離れて、日本的な何かになっていく…という説である。

多分この山本七平氏の説は正しい。では、花火大会に関して我々が持ち得ている共通感覚はなにかといえば、【もののあわれ】だとおもう。

一瞬に打ちあがり、一瞬に消える。華やかだがはかない、いや華やかなものであればこそはかない。桜の花見と同じ感覚なのだ。

日本の通うジャンルに桜ソングというものがある。どの歌でも、桜の花の美しさとはかなさを哀愁を込めて歌っている。

日本に来た外国人で、日本人はこんなに綺麗な花を見ながら、なんだってこんな悲しい歌を歌うのだろうと不思議に思う人たちが多いという。

まさに、日本教の神髄なのではなかろうか。


画像©Dick Thomas Johnson

新しい時代に……

以前に知り合ったミュージシャンの方で、東日本大震災の復興ボランティアに行っていた人がいた。彼は作業がひと段落下じきに、仲間を募って鎮魂の花火大会をやった。

面白いことに彼は江戸の花火大会が、お盆の迎え火・送り火だということは一つも知らなかった。それでも、何か花火を上げて慰めてあげたいという思いに突き動かされたのだという。

「あの暗い夜にさ、ぱーっと花火を打ち上げたら、それに乗って死んだ人たちが、また天国に帰っていけるんじゃないかって思ったんだよ」

彼はにこやかにそういった。それは魂が向かうべき異界への扉を開ける鍵のことを言っているのかと思った。

この感覚が生き続けるかぎり、今は中断されている花火大会がなくなることなどないのだと確信をしている、今日このごろである。

(光益 公映 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

 

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