駄洒落・言霊・験担ぎ――物事と心を分離しない日本語の豊穣さ

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験担ぎの背景には言霊思想がある

日本では「スルメ」を「アタリメ」と言い換えるような駄洒落的な験担ぎが広く行われてきた。

かつて、出陣前の戦国武将は「打ち鮑(うちあわび)」「勝栗(かちくり)」「昆布(こんぶ)」を食べたというが「これは敵を打つ、勝って、喜ぶ」の語呂あわせになっており、特に武田信玄はこれを重視した。海のない山梨でアワビの煮貝が名物になったのは武田信玄の験担ぎが発祥とされている。

こうした駄洒落的な験担ぎの背景には、言葉に霊妙な力や宿るとする言霊思想がある。冒頭の「スルメ」を「アタリメ」と言い換えるのも、「スル」という言葉が賭け事で負けることを想起させるからであり、一方、同様の発想で芸人は「おから」のことを「大入り」と言い換える。興行が「カラ(空)」というのは縁起が悪いからだ。

それから、不動産会社の定休日が水曜日なのは「契約が水に流れないように」という意味があるらしい。そのほか、試験等の前におむすびを食べる(結び=良縁の連想)、試合前にカツオを食べる(勝男=勝利の連想)などがよく知られる。最近では外来語もこうした験担ぎに取り入れられ、勝負の前にウインナーを食べる(Winner=勝者の連想)、試験前にタコを食べる(オクト・パス=試験通過を連想)などの験担ぎがある。


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言霊と他者や自然への優しいまなざし

こうした験担ぎ、そして言霊という考え方を迷信として切り捨てるのはたやすい。西洋的な分析的知性の観点からすると、こうした呪術的思考は前近代的で非科学的なものとして排斥、あるいは克服すべきものと見なされるだろう。

験担ぎの背景には、自分と他者、あるいは人と物事との間に明確な分離線を引かない感性が存在しており、言霊の考え方ではそこに言葉も加わる。つまり、物事と心とをつなぐものとして言葉があり、物事・心・言葉は渾然一体となって存在していると考えるのだ。

これは非科学的ではあるが、人間の感覚としてはむしろ自然な捉え方といえる。たとえば、「死という現象」を見ると人は心に不安感などを覚え、「死」という単語が思い浮かび、「死」という文字だけでなく同じ音の「4(し)」という数字もなんとなく避けたくなる。

迷信的と思うかもしれないが、感覚的には何らおかしくない反応といっていいだろう。駄洒落的な験担ぎの背景にはこうした感覚が明確に存在しているのは間違いない。

こうした感覚はどんな物事にも心が宿り、言葉によってその心と結ばれるという感覚に発展する。もちろん、名前や数字からの連想で不条理な差別が生じてはならないが、多くの場合、それは他者や自然への優しいまなざしにつながっているのではないだろうか。


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日本語は人と自然がフラットな関係を結ぶ言語

日本語には擬音語や擬態語が他言語と比べて多く含まれている。言語学の世界では、擬音語・擬態語は幼稚なものと見なされるようだが、筆者はむしろ日本語の豊かさを示すものと考える。

言語における語彙とは、端的に言えば森羅万象を写し取ったものだ。そして、擬音語・擬態語とは、人間が森羅万象に意味を与えるのではなく、森羅万象から発する「音」をそのまま写し取り、そこにそこに意味を見出したものということになる。

つまり、人知による意味の創出ではなく、人知を超えた自然そのものからの意味の創出。それこそが、擬音語・擬態語の本質であり、そこには必然的に豊穣な「音」と「意味」の世界が広がることになる。その豊饒さこそが日本語の大きな特徴といっていいだろう。

日本語のそうした性質を理解する上で、元・東京医科歯科大学教授の角田忠信氏による、日本人の脳についての研究が参考になるはずだ。




角田氏の開発したツノダテストが明らかにしたところでは、虫の鳴き声のような自然界の音は、西洋人が右脳によりノイズ的な「音」として聞く一方で、日本人は左脳により会話のような「声」として聞いているという。つまり、日本人にとって自然音とは「音」ではなく「声」であり、そこには豊穣な意味が満ちていることになる。

事実、日本人の多くは、鳥のさえずりや虫の鳴き声、風がたてる音や雨音などの自然音に趣を感じる感性を持ち、そこに詩情を感じる人は大変多い。

たとえば、小林一茶の句に「ここここと 雌鳥(めんどり)呼ぶや 下すずみ」というものがある。これはニワトリの鳴き声を「ここだここだ」と呼びかける声にみなしたものだ。

ニワトリが実際にそういう意図を持って鳴くことはないが、この句からは人間とニワトリが上下関係のないフラットな関係でつながっているような感性が読み取れないだろうか。


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天地自然すべてに開かれた日本人的な優しさの秘密

このように、日本語には物事と心、人と自然とを分離せず渾然一体のものとして扱うようなところがある。そして、その性質ゆえに、物事を優しく受容し、人と自然、あるいは人と人が調和的に共生する土台を日本語が作っていると考えられる。

験担ぎや言霊の考え方は時にマイナスの使われ方をすることもあるが、一方で日本人の優しさにつながっているのは確かだろう。もっとも、これはどの人種がより優越かという話ではない。角田氏によると、日本語環境で育った人は自然音を「声」として聞く傾向になるというから、日本語というところが重要なようだ。

もちろん、日本語と日本人、そして日本列島の自然もまた不可分につながっているので、日本語だけを単体で取り出して考えることはできない。この国に生まれ、日本語を土台とする文化に深く触れて育つことがトータルに働いて、天地自然すべてに開かれた日本人的な優しさにつながるのではないだろうか。

(神谷充彦 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

 

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