なぜ日本人は“武芸”と“舞芸”をつなげたのか【後編】

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なぜ日本人は“武芸”と“舞芸”をつなげたのか【前編】より続く

その成り立ちでつながる舞と武

日本の武術としてはじめて記録に現れるのは神代の相撲であり、ついで弓術、馬術となる。やがて南北朝時代になって合戦の様相が変わり始めると、薙刀や長柄と呼ばれる打物といわれね長い刃物の武器の技が出てくる。

意外なことに剣術の登場はこれよもだいぶ後になる。

では、剣術はどこが発生なのかといえば、まず最初に関東の常陸の国(現在の茨城件・サッカーの鹿島アントラーズの本拠地)で、ついで京の都であった。

これまた意外なことに、最初にこの剣術を始めたのは武士ではない。鹿島においては鹿島神宮の神官や神人たちであり、京においては鞍馬寺や春日大社の僧侶や神官・信徒たちであった。これは、寺社の所領や権益を守ったり奪ったりするがために発達をしたという経緯がある。

ここで、舞と武が出会うこととなる。

神事として民間にに広がっていた猿楽は、寺社の庇護を受けて興行をおこなうようになっていた。武芸の体さばきと融合をし始めたのは間違いなくこの頃だと思われる。


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しょせんは芸なのか?

能の歩方、舞の仕草は実に難しい。背筋を伸ばし、腰を落とし、膝には遊びがありつつ、足底はすり足である。これはやってみるとわかるが、かなり強靭な体力を要求される。つまり、非日常の体術であり、非日常の世界を見せるため、芸と呼ばれた。

では、武の方の芸はどうして芸と呼ばれたのだろうか。

確かに足利幕府には剣術の指南役として吉岡憲法(剣法ではなくこの字を書く)があったが、その身分は極端に低く、剣術指南だけでは食べていくのが大変で、藍染めをして金を稼いでいた。なので吉岡の家の者は大小を差していても、その肘から先が藍で青く染まっていたので、一目でわかったという。




安土桃山時代の末、京においてこの吉岡憲法(のちに宮本武蔵と戦うことになる)が、後に大坂夏の陣で華々しく討ち死にをして名を挙げた塙団右衛門(ばんだんえもん)と会見をしており、団右衛門が吉岡憲法を芸者とさげすんだため、色をなして抗議をしたが、塙団右衛門は「今まで戦場で剣の使い手が大将首をとったこともなければ、それで城を落としたということもない。してみれば一つの芸にすぎぬであろう」と言ったため、吉岡は黙らざるえなかったという。

これは何も塙団右衛門ひとりに限ったことではなく、天下人であった豊臣秀吉も徳川家康も、武芸というものには何も関心をはらってはいないのである。

家康にいたっては有害であるとして、子供や家臣たちに武芸を習うことを禁止していたくらいである。彼が幕府に武芸の指南役を置いたのは、天下を取ってからだいぶ経ってからである。

ここで、もう一つの話をあげておこう。

徳川家の家臣のうちで四天王の一人に数え上げられた本田平七郎のことである。蜻蛉切りとして名高い長槍を振るって、つねに前線指揮官として戦つづけ、生涯一度も負傷をしたことのない豪勇の武士であった平七郎は、平時の稽古ではたいへんに弱かった。

あまりの弱さに、本当にこの人が戦場で武功をあげた徳川四天王のひとりなのだろうかと訝れたというのだ。

どうも実戦の力と武芸の力とは明らかに違うらしいのだ。




柳生新陰流は役に立たない剣法なのか?

この稿のはじめの方に、能の金春流と柳生新陰流の歩方は同じだということを書いた。歩方とは足はこびだけではなく、座り方、膝の立て方までふくむものだとも書いた。

金春流はその正座から立ち上がるとき、左膝をたてる。もちろん柳生新陰流もである。正座は江戸幕府ができてから、武士の正式な座り方となったのだが、(それまではアグラをかくのが正式)このとき刀は右側に置くことになった。

すなわち、いざというとき右側にある刀を左手に持ち替えてからではないと、抜くことができないようにするためである。

このとき左膝が立っていれば刀の持ちかえはずいぶんと難しくなる。分かっていてこうしたのだ。これは習慣づけられた作法により、戦闘行動をやりづらくしたのである。

このことから武術の研究家からは幕府は天下平定後の平和な時代の象徴として、わざと戦えない武術をお留流という特別な地位において象徴としたのではないかという意見がでてきたのである。


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そして、猿楽・能楽ではその根底の思想は仏教である。

能楽の中核をなす演目に、幽玄能がある。幽玄能は亡者たちが、この世の未練をなどを、旅の僧などに訴えかけるものである。訴えかけには救済である、癒しが用意されている。私はここに武と舞に共通する、いや共通させた思いを感じずにはいられない。

企業であれ、宗教団体であれ、また国家であれ、その創立者の個性がのちのちまで色濃く残っていく(いわゆる集団DNAといわれるものである)。幕府を創設した徳川家康を評して、国民的歴史作家であった司馬遼太郎氏は、「英雄の爽快さと残忍さを持ち合わせなかった男」といった。その持ち合わせなかった残忍さこそ、戦えないお留流・柳生新陰流であり、武士の共通の教養とされた能楽なのではないのだろうか。


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家康は関ケ原の合戦の勝利ののちにも、宿敵・石田三成の子供たちを全員助命している。もし、大阪城を退去さえしていれば、豊臣秀頼も殺されなかっただろう。

この寛容さは全国の武士たちに対して敵も降伏すれば助けなければならないという規範を植えつけ、260年後に徳川幕府が崩壊したとき、徳川家のだれも殺されずにすむという形でかえってきた。

家康が形作った幕藩体制の集団DNAは、徳川幕府の内部だけにとどまらずに、日本人全体を律したのではないのだろうか。

そして、振り返ってみるならば、遥か飛鳥時代に聖徳太子があらわした一七条憲法の冒頭にある、【和をもって貴しとする】の精神の近代的な政策化だったのかもしれないと思うのである。

(光益公映 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

 

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