アトラスラジオ投稿

(投稿)男系男子の聖徳太子、その怨念

(投稿)男系男子の聖徳太子、その怨念
山口先生、
アトラスラジオ、聖徳太子の怨霊を封じ込めた封印を解いたのは誰か?!
楽しかったです。
時にはお一人語りも落ち着いていてよいですね。
わたくしは、コメントする時は
Lucia.Tというハンドルネームです。
あまりにも飛鳥時代、聖徳太子の悲劇について長年こだわってアプローチしていたため(きっかけは梅原猛先生の名著でした。)
随分とタイトルに対して見当ちがいなコメントをしてしまい
失礼いたしました。
封印は、工事で無理やり何かを壊してしまった程度では解けないと思います。
続いていると考えた方がいいでしょう。
非常に霊格が高かった明治天皇は、
太子の無念さに畏怖し、積極的に鎮魂しておられます。
以降の歴代の天皇陛下もそうなさっています。
聖武天皇が国民、臣民のことを考えずに、聖徳太子の鎮魂を、と
何度も遷都し、その度に膨大な労働力を必要として民と暮らしを不安にさせました。
教科書は国民のため、大仏建立と云うことになっていますが
国を、国民を苦しめ続けた挙げ句、急げ急げとなお苦しめて
出来た~!万歳!これで聖徳太子様も認めてくださり、鎮魂となるであろう、、、少なくともボクは良いことをしたぞ、ボクは呪われず暮らせるはずだ!が
真逆の結果になり
奈良時代は大変な時代でした。
以下はアトラスラジオにコメントしたことです。
>
聖徳太子は怨霊、ご無念を遺されてと言われる1番の要因は天皇にかれなかったことです。
実在した御方ですし、頭脳も明晰であらせられました。
しかし男系男子ではなかったため、即位できませんでした。
桓武天皇の母上、高野新笠が渡来人の直系であっても即位出来たのは男系男子だからです。
この話はどなたかのコメントにございました、ペルシア系の血が聖徳太子には入っているというというところから書き出したものです。
そこを読みますと
用明天皇とペルシア人女性の御子であるかのように想像できましたが、
ペルシアの血は間違えないと思いますが、わたくしは用明天皇の間人皇后とペルシア、イスラエル系の漂流してきたキリスト教の宣教師のような人物との間の御子と思っておりました。
それゆえ、男系男子ではないので、どんなに願っても天皇にはなれない。聖徳太子自体も暗殺、(天皇制不安定要素のため。)そしてのちに山背王もろとも一族虐殺されたのだと思っています。
間人皇后(はしひと)の間人は、現代語の間男の女性版の意味もあります。もう一人、間人と呼ばれる皇后が孝徳天皇の時に別人で存在しますが、そのお方は皇子時代の天智天皇(中大兄皇子)と共に、夫である孝徳帝を置いて去りましたから、のちにそのように(間人)と呼ばれたのだと思います。
用明天皇、間人皇后どちらも欽明天皇の皇子であり皇女、つまり異母兄妹で、間人皇后の立場は守られたものでした。
何かしらのご縁で生まれたその皇子、厩戸王子は本来でしたら推古天皇即位の時点で即位できています。
男系男子であるならば。
それができないゆえ、摂政とはなったものの、けっして黄櫨染の御衣は着られない、天皇にはなれない定めであったことは厩戸も当時の皇室関係者、蘇我家も知っていました。
そのため、49歳で崩御するまでもちろん即位することはありませんでした。
天皇になりたかった、、
黄櫨染の御衣を着たかった、、
その無念が残った。その想いを封じ込めなければならなかったのです。
今でも天皇御即位の際には、厩戸王を奉る所で、黄櫨染の御衣を(聖徳太子のために特別作ったものがあり、平時は仕舞ってあるもの)をお出ししていています。
最大のお慰めになるようです。
治世において景教の影響はもちろんです。
仏教を積極的に取り入れたのも、ご自身のお力をお示しになりたかったからです。神道=天皇家に1つの波を入れたかったものと拝察されます。
それでもその時代の天皇が祭祀するのは神道でした。
寺院の建立などは天皇の詔として出されているのも本当です。
法隆寺は、厩戸王、諡号 聖徳太子(聖なるして、徳の高いという最高の御名前を与えました。)のお墓です。
敏太郎先生のご説明のように逝去時は母である間人皇后と位の1番低い妃と共に合計三名のお棺が間人皇后用の陵に別に入っており、本来
高貴な皇族が薨去した場合、その時点から陵が造られ、
最低でも1年、殯(もがり)の期間があります。
敏達天皇(推古天皇の夫にあたる方)など、殯は数年あったように記憶しております。
しかし、殯なしで即刻既にあった御陵に合同、というのは早く隠したいからに他なりません。
つまり厩戸皇子は暗殺されたということです。
崇峻天皇は、殯なしで葬られた唯一の天皇です。
既にあった同母兄の穴穗部皇子、または宣化天皇の流れを受け継ぐ、やかべの皇子とされる墳墓に合喪されました。
明らかに暗殺された証しです。
法隆寺は封印するためのものです。
厩戸王は入鹿ではなく、きちんと存在しました。救世観音像は聖徳太子そのものです。お顔も。
未来記も存在しました。
これは太子が十代の頃ですが
用明天皇には第1皇子がおりまして、但し母の身分が低い(と申しましても蘇我系の 石寸名妃です)ことから、政治の表舞台に出ることは叶わず、母から受け継いだ土地や山からの収入で淡々と暮らしておられました、独身で。
その第1皇子と聖徳太子の母、間人妃は再婚なさいます。第1皇子は初婚です。
義理とはいえ母と息子の結婚となるので何故?と云う声もあったはずです。さらにそうすることで、元皇后、という地位や名誉も失われてしまうにもかかわらずです。
お陰さまでおふたかたは仲良く皇女をご出産あそばされました。
それを思春期に見ていた、祝福する立場をとらなくてはいけなかった
顔も身長も髪の色も目の色も日本人とは似ても似つかず悩んでいた厩戸皇子のお気持ちはいかばかりだったのでしょうか、、