日本人は無宗教? 欧米人が理解できない日本人の宗教観 ①

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欧米人の宗教的不寛容

欧米人の中でも日本に詳しくない大多数の人々は日本を無宗教の国と考えている。だが、特に信仰を持っていない人でも、「無宗教」と断言されることには違和感を覚えるだろう。それは、ほとんどの日本人の心の奥には自然の中に神を感じ取るような宗教性が底流として存在しているからだ。

欧米人が「日本人は無宗教」と断じてしまうのは、彼らの知る主な宗教はキリスト教、イスラム教、ユダヤ教であり、日本ではそれらがほとんど信仰されていないからだろう。

さらに、神道や仏教が日本で信仰されていることを知っている欧米人であっても、彼らは神道や仏教を宗教ではなく迷信のようなものと感じている。「迷信」ならまだいいほうで、日本にやってきた宣教師が稲荷神社の神狐像を見て、悪魔崇拝と勘違いした話もある。自分たちの信仰こそが真の宗教であって、そのほかは邪教であるという不寛容なスタンスなのだ。


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先住民の聖地を潰してその上に教会を建てる

精力的な布教によって世界各地に広がったキリスト教は、各地に元からあった先住民の宗教の聖地を潰してそこに教会を建てているが、これこそまさに不寛容の極みだ。とはいえ、キリストの教えやキリスト教自体が問題というよりは、これは欧米人の特質に由来するものだろう。

たとえば、南米ペルーの古都クスコにあるサント・ドミンゴ教会の場所には、かつてスペイン人による侵略以前、先住民族による「太陽の神殿」が存在した。しかし、スペイン人たちは黄金を豊富に用いたその神殿を略奪・破壊した上で、壊せなかった頑丈な石組みの上に現在の教会を建造したのだ。

このように、各地に元から存在した聖地の上に教会が建っているケースは多い。たとえば、イギリスのアーサー王伝説の地・グラストンベリーの丘には聖ミカエル教会が建っているが、この丘は上空から見るとトグロを巻く巨大な蛇、あるいは女性器のように見え、古代人が宗教的目的に作った人工丘ともいわれている。

ただし、現在のキリスト教はそこまで不寛容ではなく、特に現在のローマ教皇フランシスコは、さらにそうした不寛容さを払拭する方針を強めている。2代前のヨハネ・パウロ2世も、来日時にキリスト教系の学校の生徒から「通学路に靖国神社があるのですがどうすればいいですか?」と問われたときに、「頭を垂れて通りなさい」と返答しており、他宗教への寛容性を持とうとしている姿勢は明白だ。




日本人ならではの宗教的感性とは

欧米人が「日本人は無宗教だ」というとき「無宗教者は信頼できないという」という思いがそこにはある。人々を見張る神の目の存在を信じていないなら不道徳的なことを平気でやるだろう、と彼らは考えるのだ。本当に神なる存在がいると信じているか否かは別として、「神が厳しく見張り、不道徳な者には罰を与える」という感覚が根底にあるからこそ、彼らは道徳的であろうとするのだ。

ところが、実際の日本人に接してみると、欧米人以上に道徳的な人が大多数を占めるので、彼らは「神を信じていないのになぜ」と混乱する。

これについての1つの回答に「日本人は恥の概念を基盤にした相互監視社会だから」というものがある。確かに、日本ではコロナ禍において営業自粛をしない店舗を寄ってたかって攻撃するような行為が一部に見られ、これなどは「相互監視社会」を思 わせる。

しかし、日本人の「監視」の感覚は対人だけにとどまらず万物に及ぶ。たとえば、「どんな悪事もお天道様が見ているよ」といった言い回しにそれが現れている。また、長い年月を経て使われてきた道具などに神や精霊が宿るとする「付喪神」という考え方もある。大事に使ってきた道具には神が宿るのだから、なおのこと粗末には扱えない……というのが日本人ならではの宗教的感性なのだ。


画像©Wikipedia 歌川芳員『百種怪談妖物双六』に描かれている傘の妖怪「一本足」

欧米人の宗教的感性は「垂直」、日本人は「水平」

日本人の宗教的感性にももちろん「罰」という概念はあるだろう。ただし、絶対の高みに「全知全能の神」がいて、どこにいようとその監視下にあり、過ちを犯せば確実に「罰」が与えられるという感覚が欧米人の宗教的感性だとすれば、日本人にとっての「神」とはもう少し人間と対等に近い存在といえる。

人と神との関係が欧米では「垂直」なのに対し、日本では「水平」といってもいいだろう。「神」といっても水平に近い関係なので、なだめすかして「罰」を回避することも可能だ。これは、知り合い同士で話し合って、わだかまりを解消する感じに近い。

一方で、たとえばキリスト教(カトリック)にも「罰」の回避方法として「告解(ゆるしの秘跡)」があるが、これはあくまでも司祭という上位者により「父と子と聖霊のみ名によって」行われ、その「ゆるし」は垂直に降りてくるものだ。

このように、欧米人の宗教的感性は「垂直」、日本人の宗教的感性は「水平」と考えてみると、欧米人が「日本人は無宗教だ」と思ってしまうのも合点がいく。日本人にとっての「神」とは欧米人が「神」という言葉からイメージする唯一神ではなく、絶対の高みにも立っていないため、彼らからするとまったく「神」とは思えないのだ。


画像©Manfred Antranias Zimmer Pixabay




天皇は絶対の高みにいる存在とはされていない

ここで、少し神道を知っている人なら、「唯一神ではないものの天照大神が神道の最高神であり、その直系子孫とされる現人神としての天皇こそが神道における超越的な存在ではないのか?」と疑問を持つかもしれない。確かにその考えでいくと、日本にも「垂直」の宗教的感性があるように思える。

しかし、もう少し詳しい人なら、かつて天皇が仏教を信仰していた時代があったこと、天照大神が神道の最高神であり、天皇が超越的な現人神とされたのは明治以降であることも知っているはずだ。天照大神や天皇を超越的存在に置いたのは、当時、近代国家化=欧米化を図っていた明治政府であり、キリスト教をモデルにした神道の再構築の結果そうなったのだ。

興味深いことに古くからの宮中神事からは、天皇が神道的にも超越的存在とは見なされていないことが読み取れる。たとえば、6月と12月の大祓のときに宮中で行われる「節折(よおり)の儀」では、天皇の体のケガレを祓うためとして、絹や壺に息を吹きかけケガレをそこに封印。さらに、身長と同じ長さに折った細い篠竹を皇居の堀へ流すことを行う(本来は川へ流すことになっているが河川法の関係でできない)。

つまり、天皇も常人と同じくその身にケガレを宿すことがあると見なされているわけで、ここからも天皇が絶対の高みにある存在とはされていないことが分かる。

欧米人の多くは天皇が皇居内で田植えをしている姿を見て「こんな高貴な立場の人が?」と驚くが、日本人なら万物に神が宿るという感覚があり、その感覚でいうと稲も田んぼの土も天皇もみな「神」なのだから、そこまでの驚きは覚えないはずだ。

だが、このような日本人の宗教的感性は、骨の髄まで一神教が浸透した欧米人にはなかなか理解できないことだろう。

≪次回につづく≫

(神谷充彦 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

 

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