日本語に表れる徳性――日本人は「意識の本質」を知るがゆえに優しい

画像©かねのり三浦 PIXABAY

主語不要な日本語は自己主張の弱さにつながる

英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロシア語など印欧語と総称される系統の言語では、文章中に人称代名詞などが主語として必ず置かれる。くだけた言い方では主語なしの表現もあるが、一般的には主語が文頭などに強調される形で置かれることが多い。

一方、日本語は主語なしでも文章が成立するのが普通で、その感覚で英文を読むと「I」とか「You」といった単語が頻出することに違和感を覚える。

たとえば、相手の言ったことを聞き返すときの慣用句に「I beg your pardon?」というものがある。直訳すると「私はあなたの許しを懇願します」と大仰になるが、感覚としては「えっと、すいません?」ぐらいの感じだ。ただし、あくまで聞き返しの慣用句なので、実際には「何といいました?」などと訳される。

ここで問題にしたいのは「I beg your pardon?」の中に「I」や「Your」といった人称代名詞が入ることだ。ちょっとした聞き返しの言葉の中にいちいち「私は」とか「あなたの」と入ってくるのは日本語の感覚からは遠くかけ離れている。

結論から言えば、これは印欧語を話す人々の自我の強さに関係してくるのではないか。全体的傾向として彼らは自己主張が強く、「I」「My」「Me」「Mine」と「私」を強調した言語表現は、自らの要求を簡単には譲らない性質と直結しているように思える。

一方、日本人は自己主張が弱く、海外からは「日本人はシャイだ」と思われている。また、自らの要求を比較的簡単に譲ってしまうようなところもあり、これは、日本語表現が主語なしで成立することに関係しているだろう。


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日本語における人称代名詞の特殊性

そうした日本人の性質と日本語の特徴は欠点ではなく、それこそ日本人の徳性につながるものなのだが、その説明の前にもう少し日本語の人称の話を進めてみたい。

日本語では主語なしに文章が成立すると述べたが、もちろん、主語や人称代名詞が存在しないわけではない。ただ、これも日本語の特異なところとなるが、方向や場所を指し示す指示代名詞がそのまま人称代名詞の代わりになるという特徴がある。

「それについて、あちらさんはどう言ってるの?」
「こちらといたしましては善処したく……」

あまりに自然に使っているので普段は意識しないが、こうした文章に登場する「あちら」「こちら」とは方向を示す指示代名詞でありながら人称代名詞として機能しており、「私」や「あなた」という言葉なしに主語を表している。

また、「私」と「あなた」を使った文章の中において、その指し示すところを逆転させた用法もあり、古い日本語の型が残っている関西圏の口語によく見られる。

たとえば、「あなた、たこ焼き食べ過ぎじゃないの?」と伝えるとき、関西弁では「自分、たこ焼き食べ過ぎちゃうん?」などというが、ここでは、「自分」という言葉が本来とは逆に「あなた」という意味で使われている。

任侠映画の「ワレ、ふざけとんのかぁ!」などのセリフも同じで、この「ワレ」とは「我」であり、本来は自分を指す言葉だ。「我」は古くは「わ」と読まれ、さらに古くは「あ」と読まれた。そして、これの同音語に「彼(あ)」があり、これには「あちら」「あの人」などの意味がある。

つまり、話し言葉としては、自分を指す言葉と他者を指す言葉は同じ「あ」ということになる。


画像©Wikipedia/大福光寺本(鎌倉前期写、伝 鴨長明自筆)

自我のない日本語は日本人の優しさに直結する

日本語のこうした表現からは、自己と他者をはっきり分ける「自我」のようなものがほとんど感じられない。

「あちら/こちら」が「私/あなた」を表すということは、「私」と「あなた」の違いとは単に向いている方向の違いということだ。そして、「あなた」の立ち位置に意識を置くと、その「あなた」が「私」となるので、「自分、たこ焼き食べ過ぎちゃうん?」という表現となる。

すなわち、意識を容易に相手の立ち位置(視点)に置けるということであり、これこそが日本人の徳性に直結する日本語の特徴だといえる。つまり、相手の立場になって考えられるから、人に優しくあれるのだ。

もちろん、個々人を見れば、日本人でも優しくない人はたくさんいるし、日本人以外にも優しい人はたくさんいる。しかし、総体として見てみるとやはり日本人には優しい人が多いという印象がある。

ただ、こうした性質にはマイナス面もあり、たとえば、自我の希薄さはともすれば「集団のために個人は犠牲になってもよい」という思想とその受容につながりやすい。また、相手の立ち位置に意識を置けるというスキルは、詐欺行為やマインドコントロールなどにも応用でき、必ずしもいいことばかりではない。

そうした側面は否定できないが、それでもなお、意識を相手の立ち位置に置けることには人の善性を引き出す効果があるのは確かなところだ。




日本人は意識の本質を知っており、悟りに近いところにいる

このような日本語の特徴は、中国から渡来した禅仏教が日本で花開き、多くの大悟者を輩出したことにもつながってくる。

「あちら」や「こちら」といった方向を示す指示代名詞が人称代名詞の代わりになるのは、決して不思議なことではなく、むしろ意識の本来のありように近い。生まれて間もない赤ん坊にとって「私」「あなた」という概念はなく、その視界では「見ている意識」のある「こちら側」と、「見られている世界」のある「あちら側」が意識されているのみだからだ。

その「こちら側」の「見ている意識」を「私」と呼んでもいいが、それは「見ている側」であって「見られている側」ではないため見えるものは何もなく、いわば「無」である。「私=無」なのだ。そこを看破し、看破したところに透徹することを禅仏教では悟りと呼ぶ。

欧米的な文脈からすると、日本人のそうした意識のありようは「自他未分の幼稚な意識」と映るかもしれない。マッカーサーが日本人を「12歳の少年」と評したのもそういうことだろう。だが、これは幼稚というよりは、意識の本来のありように近いと考えるべきだ。

欧米の人々の多くは成長に伴って自我を強め、やがてその自我に苦しめられるようになるが、彼らのうち若い感性と真の知性を持つ人々は禅に熱中した。それは、意識の本来のありように立ち返ろうとする動きであり、現在、禅は「マインドフルネス」として欧米の一流企業などでメンタルヘルスの一環として導入されるところまできた。

日本人は意識の本質を知るがゆえに優しく、そして、悟りに近いところにいる。欧米の文化や考え方を取り入れるのも大切なことだが、その一方でこうした日本人の徳性をきちんと認識しておくのもまた大切なことではないだろうか。


画像©TicTac photo AC

(神谷 充彦 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

 

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