聖徳太子はキリスト教的神道伝道者!?

仏教信仰のために四天王寺や法隆寺を建立したとされている聖徳太子であるが、実は仏教よりキリスト教よりの神道を信仰されていたのではないかという新説がある!

当時からシルクロードを伝って様々な文化や渡来人が日本に移ってきたが、聖徳太子の母親にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)にはペルシャ系の血が入っていると言われている。「はしひと(波斯人)」とはペルシャ人を意味し、ペルシャ系日本人の名前にはこれが使われていた。




かつて存在していたユダ王国があった土地もペルシャ領になっていたため、中にはユダヤ系ペルシャ人も日本に渡ってきていた。さらに当時のペルシャは古代キリスト教の一派であるネストリウス派の本拠地でもあった。

日本の神道で伝えられている清酒・雅楽・禊や貨幣・冶金・製鉄・機織り・養蚕などの文化は、ユダヤが起源である。三種の神器の剣はペルシャ製とされている。日本の文化や宗教は、ユダヤ・ペルシャの影響がかなり強いことが垣間見える。

聖徳太子は中臣鎌足の父親であった中臣御食子(なかとみのみけこ)により、『古事記』の前からあった「宗源道」(そうけんとう)という一神教神道を学ばされていた。つまりは八百万の神々が登場する多神教神道とは違うキリスト教的神道である。

四天王寺(大阪府)はもともと寺ではなく、神社と四箇院(しかいん)であったため大鳥居がある。四箇院(敬田院・療病院・施薬院・悲田院)は、学芸や医療など慈善活動のために建てられた。これらは、聖徳太子に仕えていた景教徒(ネストリウス派)達によって運営されていた。聖徳太子の死後に、四天王像が設置され寺にされたのである。

十七条憲法第二条の「篤く仏法僧を敬え」とは、後から書き換えられた部分である。実際は「篤く三法を敬え」と伝えられており、三法とは儒教・仏教・神道のことである。だが、道慈という仏法僧が多宗教を気に入らず、『日本書紀』を捏造していたのだった。

広隆寺(京都府)に安置されている弥勒像(みろくぞう)は右手の親指と薬指をつけているが、東方キリスト教の三位一体神信仰を表すポーズと同じである。聖徳太子が側近の秦河勝(はたのかわかつ)に弥勒像を託していた。広隆寺を建てた秦氏もユダヤ・ペルシャ系の東方キリスト教徒であったと言われている。




聖徳太子が法隆寺(奈良県)から飛鳥京へ向かうために通ったと言われる太子道は、冬至(12月21日)の23時33分頃になるとダビデの星と呼ばれたシリウスと一直線上になるそうだ。法隆寺と隣接した中宮寺にある『天寿国繍帳』は、聖徳太子が逝った「天寿国」と呼ばれるキリスト教の天国を描いた刺繍である。

馬小屋で生まれたことから厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれた聖徳太子にまつわる逸話は、聖書が原典になっている場合が数多くある。聖徳太子は架空の人物だったという仮説もある。逸話自体は架空であったとしても、実際に政治を行っていた存在として実在していたかもしれない。

いずれにしろ、キリスト教的思想が神道へと繋がり仏教とも調和されていたことに驚きである。多宗教や異文化に寛容である日本人の気質が、聖徳太子の時代から受け継がれていたことを物語っているようである。

関連動画
実在の聖徳太子はキリスト教徒だった(久保有政・解説)

(ふりーらいたー古都奈 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像©Wikipedia 聖徳太子像(菊池容斎『前賢故実』より)引用
参考サイト:神のホームページ 聖徳太子の謎

 

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