【江戸奇伝】剣豪達の儀と面子によって引き起こされた伊香保宿(温泉街)の大騒動

文政八年正月十四日 伊香保の額論 弘賢識

 文政六年に起きた出来事をお伝えします。一刀流剣術者の千葉周作は、若浜小浜の家臣で由緒も正しい人物です。剣技は鬼神に等しいと言われる程の剣豪で、その腕前を公儀にも知られていた周作は、執政から諸国修行の許可を得て、弟子たちを引き連れ身分は隠して浪人を装いながら旅をしていました。

 周作一団は上毛高埼の畔を徘徊していた時に、同州引間村の浦八と親しい間柄になり、周作の弟子のひとりには、一ノ宮貫前神社に掲額しようと決闘を試みて念流を破門された山口藤十郎(後に学心流という一刀流の新派を築いた)という人物が居ることなどを語らいました。
 同年四月八日のことです。周作と浦八は、伊香保の湯前の薬師堂に、門人達の名前を悉く記した額を揚げる密談をしました。浦八は周作の思いを察して、周作の身分は隠し通して揚額の段取りをつけることにしました。伊香保の周辺地域では、抑馬庭村念流剣術(馬庭念流)が主流だったので、浪人の一団が薬師堂に掲額するとなれば、馬村念流の一団から睨まれるのは時間の問題でした。
 しかし、周作一団は睨み合いが大事になるとは思わなかったので、馬庭念流を侮らないことや、手並みを見せることは避けたいので、馬庭念流の一団とは関わらないようにしようと簡単な打ち合わせをしただけで、同州の馬庭念流師家である樋口十郎左衛門にも周作の身分は隠し通すことになりました。

(馬庭念流は師家に代々達人が出て、天正年中から続いている剣術です。他の郷から遠路はるばる学びに来る者も居るほどで、文政の今もなお学んでいる者が千人以上は居る流派です。)

 周作一団が揚額をするという話を聞いた赤堀武士の本間仙太郎は、子分を六、七十人率いて伊香保宿に推し登りました。東からは、平塚田部位の郷黨栄八の子である十五歳の少年(名前は忘れました)を頭とし、その少年に大竹新平衛が付き従うかたちで四、五十人が同じ場所に集まっていました。この東からの一団は、吾妻の里人などの集まりで、各々が劣るものかとの勢いで頭立てていました。

 伊香保宿には十二軒の宿があり、其々が本家であると宣伝しています。この地域の商人は、十二軒のご機嫌を伺いながら生計を立てていました。周作一団は、小樽武太夫の宿に額を奉納することになっていて、それ以外の十一軒の宿も全て予約して貸し切りにしました。そのことが馬庭村に知れ渡ると、樋口十郎左衛門はとても驚いて、人力車の進退を制止して伊香保宿への進入を阻止するため、内弟子などを率いて伊香保宿を目指しました。その騒動を聞いた野次馬が至るところから集まり、七日も経たない内に伊香保宿には七〇〇人以上が集まる騒ぎになりました。

 騒動の有様を聞いた周作一団は、何が何だか良く分からないまま進み兼ねて、伊香保宿に到着する予定の日は野宿をすることになりました。日増しに騒ぎは大きくなり、騒動の件が岩鼻の御陣屋まで伝わると、新町宿の運営に携わっていた者達が御代官に呼ばれて騒動のいきさつを尋ねられました。そして、小樽武太夫の宿の主である武太夫が呼ばれて、額の奉納を中止するように伝えられたので、騒動は無事に沈静化すると思われました。
 しかし、周作一団は怒りが収まらず、引間村の浦八を始めとして皆が宿所に集まり、額奉納を妨害した樋口の奴等を只で済ます訳には行かないと一致団結し、その旨を伝えられた樋口方は、こちらも皆、覚悟が出来ているのでこの期に及んでは一歩も退かぬと、伊香保宿で周作一団の出方を待ちました。





(国会図書館デジコレ・忠義教誡赤松譚)

(国会図書館デジコレ・忠義教誡赤松譚)

(国会図書館デジコレ・滝沢馬琴著、彦山権現誓助剣)

 樋口方では、穏便に掲額を制止させるつもりであったが、今となっては襲撃に備え、敵が攻めてきた場合は討ち果たすことは無論だが、早まってこちらから手出しをするようなことは避けるようにと指示が出されました。
赤穂武士の仙太郎は、心得ましたと先陣を切り、射干玉夜月の家紋が入った鉢巻きと襷を身に付け、樽を椅子にして腰かけ、左右には弟子達を並べて襲撃に備えました。仙太郎の面構えは頬髯を生やしていて、これぞ大将の風格という物々しさでした。
 樋口を総大将とした本陣は、各々が列を正し、墨とり紙を持って合印とする合図を決めて万全の態勢を整え、日が暮れてからは、ほら貝を鳴らしながら周辺の山林に鉄砲を撃ち響かせて襲撃に備えていました。

 一発触発の睨み合いで事態が緊迫してくると、御代官所の使者たちが双方を制止して、和睦するように伝えました。しかし、大勢の強い意志が掛かっているということで、互いに一歩も譲らずに緊迫した硬直状態が九日、十日と続きました。
 そして遂には、御代官から厳密に制止するように命令が出されて、ようやく樋口方が納得して伊香保宿を退いたので、各々が家路へ帰り始めました。

 因みに述べますが、武太夫と同家の八左衛門という男性は、この騒動が契機になり結婚したのですが、相手はとても気転が利く女性で、騒動のときは素早く家財を片付けるなど、自らが抜け目なく立ち回り、手代・下女には手ごろな石を沢山拾わせて二階に積み上げさせて、灰を包んだ紙を木鉢などに沢山入れて置き、場合によっては間者などが忍び寄ることもあるだろうから油断しないようにと注意を促し、庭の木陰や雪隠までも警戒させておりました。

 馬庭念流は応永時代の念阿弥慈恩が初祖とされ、永禄時代に友松兵庫頭氏宗の門人であった樋口又四郎定次が上毛馬庭村に在住して伝えた剣術です。現在、樋口家では六十五歳になる樋口定雄が九代目を務めていますが、それまで剣術でもって家砦を落としていない世にも稀な名家です。

 私は念流の門人なので、上毛の同門の方から騒動の詳細な趣を教えて頂いたのですが、儀を捨て利に走る者も多い時代に、愉快な出来事もあるのだなと、若い頃を思い出しながら老いの目覚めを慰めています。儀を重んじた剣豪たちによって引き起こされた睨み合いは、最初はどうなることかと緊迫したようですが、無事に解決したので良い思い出話になるでしょう。初春に起きた伊香保宿騒動は、めでたしめでたしと言ったところでしょうか。

※参考:兎園小説(国会図書館蔵)




≪あとがき≫
大和魂はオカルトと剣術によって育まれてきた

 鎌倉時代に踊り念仏などで日本列島を熱狂させた一遍上人は時宗の宗祖である。一遍上人が逝去してから60年の歳月が過ぎたころ、7歳で時宗に帰依した念阿弥陀慈恩は、護身術の腕を磨きながら修行に励んでいた。そして、鞍馬山での修行中に天狗から武術の奥義を授かり(注:諸説あり)、後に念流剣術を創始することになった。また、樋口定次が念流を元に確立した剣術は、馬庭村で代々伝承されたことから馬庭念流と呼ばれる。
 念流は日本兵法三大源流に含まれており、護身術として広く普及している。

 千葉周作によって創始された北辰一刀流は、北辰信仰(※1)の影響を受けており、周作は少年の頃、千葉県松戸市の浅利道場で剣術の修行に励んだと伝えられる。
 ある日、筆者が浅利道場跡地から然程遠くない松戸市上本郷に伝わる七不思議(※2)を調査していると、本福寺の境内で奇妙な石碑図を見つけたので住職に詳細を尋ねたところ、この地域の寺社仏閣は、星(北辰)の影響を受けて不思議な配置になっており、その配置の中心が本福寺になっているので石碑図を置くことになったと教えて頂いた。


(千葉周作修行の地)

(奇妙な石碑図)

 地図上で自社仏閣の配置を調べると、石碑に記されている通り、本福寺を中心として十字の配置になっていることは確認できた。しかし、土地開発などにより自社仏閣の配置などが昔とは変わってしまったため、残念ながら星座と自社仏閣の関係性を地図上で確認することは難しくなってしまったようである。
 本福寺の真上にあたる明治神社は、1872年頃まで妙見神社という社名で、平家千葉氏の戦の祭神である(北辰)妙見大菩薩が置かれていたとされるので、周作がこの地域の寺社仏閣の配置などから剣術奥義を会得しようと修行していたことは想像に難くない。
 また、伊香保の額論からは、当時の女性が身を守る生活様式も伺えるので興味深い。額打事件の後、伊香保の周辺で北辰一刀流が伝えられることは暫くなかったが、北辰一刀流に含まれる小振りの薙刀術は、女性の護身術として広く普及した。

 一般的には、千葉周作が揚額を諦めて帰ったという一節が強調されているようだが、伊香保の額論には、樋口方がようやく納得して伊香保宿を退いたと記されており、互いに身命を賭して闘いたかったという剣豪の性が見受けられるので、実際に闘っていたら勝敗の行方はどうなっていたのか気になるところである。

 因みに述べるが、天狗から武術の奥義を授かった念流と北辰信仰の影響を受けた北辰一刀流は、大和魂に大切なことはオカルトと武術から教わってきた日本文化の象徴的な史実と言えるだろう。

※1 北極星又は北斗七星を神格化した信仰。
※2 八百比丘尼、早風神社の大杉、富士見の松、ゆるぎの松、斬られ地蔵、二ツ井戸、官女の化け物の伝承がある。

※参考:案内板、ウィキペディア

(前世滝沢馬琴 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

 

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