刀鍛冶だった祖父が持っていたたくさんの和同開珎  

投稿 匿名希望さん

母方の祖父は石巻で鍛冶屋をしていました。 お弟子さんが一人いて、隣でふいごで風をだしなから、祖父が真っ赤に熱した鉄の棒をトンカチで二人でトンカントンカン叩き、水でジュッ!と冷やし再び熱して“トンカントンカン” 、包丁など刃物を作っていたのを見るのが子供の頃両親が帰省したときや、共働きだったので夏休み一ケ月預けられていた私の楽しみの一つでした。

鍛冶屋の小さな部屋の隅っこには金物の洗面器に山の様に、真ん中に四角い穴、回りに文字が彫ってある(これは後で知りましたが)和同開珎が山のようにザックと入って無造作に置いてありました。




高校の授業で自分の祖先の事をを調べるという課題が出た時、母から聞いた母方の祖先は、史実では鎌倉で処刑された事になっている、何とか天皇とか何とか親王とかがいて、(その頃は名前を覚えていたのですが、すっかり忘れてしまいました)実際に当時鎌倉に行ってみると、ここで処刑されたという祠がありました。

その方は実は鎌倉から三人の家来に守られて舟で脱出して宮城県にたどり着き、三人が各々職につきその方を守っていたと。そして母方の祖先は、刀鍛冶になり祖父の代には鍛冶屋として後を継いできたとの事でした。

祖父は分家だったのですが戦前、代々の墓を掘り起こしたところ、刀やらなにやら、まぁ財宝とでもいうモノがざくざくと出て来たそうなのですが、当時の事なので寺の住職が、墓から出た物は寺の物だと全て没収してしまったそうです。




その時祖父は「何をバカな!」と一つだけコッソリ持ちかえったという物が我が家にずっと残っていました。

それは、私も見たのですが、素材がよくわからないのですが片面に亀と鶴の彫り物裏面はツルツルに磨きあげられた昔の丸い銀色の金属、銀だったのか?銅だったのか? 直径10センチ程のズッシリ重さのある鏡のようでした。

あの和銅開放はどうなったのだろう!?

あまりに沢山在りすぎで皆気にもしていなかったし、また私も知らなかったので『何だろう?』くらいにしか思いませんでした。でも、今思えば一つ二つもらっておけば良かったです。

(山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像©Dirk Hoenes PIXABAY


 

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