日本で最も有名な『足の無い幽霊』…正体は邪馬台国の女王卑弥呼だった!?

(副題:前世滝沢馬琴単独ライブ①)




日本で最も有名な幽霊といえば『うらめしや~』でおなじみの足のない女性の幽霊だが、足のない幽霊画を最初に描いたのは江戸時代に活躍した画家の丸山応挙(1733年~1795年)といわれている。そして、応挙が足のない幽霊を描いて以降、日本で目撃される幽霊には足がなくなったと言われている。

正面と背面をガラス窓に挟まれた状態で正面を撮影したら、ガラス窓に映る自分の姿が足のない幽霊になった

応挙が描いたという幽霊画が、千葉県市川市の徳願寺(木)※1で、お十夜会の日に一般公開されるとのことで寺宝を見学しに行って来た。両脇がガラス張りにされている仁王門の中央で記念撮影をしたところ、筆者の姿がまるで足のない幽霊のように映ってしまった。




そこで、応挙が描いた足のない幽霊画はガラスによるものではないのか?と疑問を抱き、応挙について詳しく調べてみたところ、案の定、応挙は若い頃にガラス細工店で眼鏡絵※2の日本風景を描いて画家の修行をしていたことが分かってきた。   

若い頃にガラス細工店で働いていた応挙は、窓越しに見える人物を見て足のない幽霊画を思い付いたのではないだろうか……。

なぜならば、ガラス窓は上の方に設置されている場合が多いので、そのようなガラスの窓越しに人物を見た場合、上半身だけが見えて足は見えないからだ。そこで、日本のガラスの歴史について調べてみると、詳細は良く分かられていないことが前提となり、日本におけるガラスの製造が産業と呼べる規模で始まったのは1650年から1745年頃と考えられているようだ。

ガラスの普及と応挙の活躍した時期は一致していると言えるだろう。つまり、日本における足のない幽霊の目撃談は、ガラスの普及が広まるにつれて増加したと考えられる。参考までに、ガラスの普及と足のない幽霊の目撃談推移表(前世滝沢馬琴調べ)を載せておこう。






応挙以前に足のない幽霊画は存在していた

足のない幽霊画についてさらに調査を進めて行くと、どういう訳か応挙が活躍した時代よりも100年ほど古い、1670年頃の文献とされる三味線浄瑠璃【花山院きさきあらそひ(かざんいんきさきあらそい)】という語り物に〈足のない藤壺の生霊〉と〈こき伝〉が、花山院のきさきを廻って争う様子が描かれた挿絵の存在を確認することが出来た。

つまり、足のない幽霊という社会認識が応挙以前からあったことになる。これは一体どういうことだろうか?(前世滝沢馬琴単独ライブ②へと続く)

(前世滝沢馬琴 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

※1 徳願寺は徳川家と宮本武蔵ゆかりの伝説が残るお寺で、円山応挙の幽霊画、宮本武蔵の筆による書画などの寺宝が毎年1回、お十夜の日に一般公開される。徳願寺住所:千葉県市川市本行徳5-22 (参拝される方はご自身で詳細をご確認の上お出掛け下さい)

※2 45度傾けた鏡に映した絵をレンズ越しに覗いてみる風景画の一種で、原画は絵や文字が左右反対に描かれている。


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