アニメの金吾のイメージとは全然違っていた!?~小早川秀秋の意外な素顔~

昨年2018年10月~12月にTBS系列で放送されたTVアニメ「学園BASARA」に、脇役で登場した金吾こと小早川秀秋(声・福山潤)は歴史上でどんな人物だったかご存知だろうか?

彼はカプコンの人気ゲーム「戦国BASARA3」から登場し、このシリーズではすっかりおなじみとなり個性派武将として親しまれている。

ゲームでもアニメでも鍋を背負っており、カブトムシの角が兜および帽子についている。武将らしくない気弱な性格で、戦よりも鍋料理を調理して食すのが大好きな愛嬌あるキャラクターとして描かれている。

彼の鍋好きは初代鍋奉行という役職に就かされていた(大久保忠教だったという説もある)ことからできたイメージである。当時貴重とされていた鍋を管理する、江戸時代初期からあったとされる役職である。




華々しげな幼少期!?

1582(天正10)年、近江(滋賀県)の長浜で木下家の五男として生まれる。叔母であるおね(豊臣秀吉の正妻)から気に入られ、3歳で豊臣家の養子にされる。この時に左衛門督(さえもんのかみ)という官職を与えられる。彼が与えられたこの官職は執金吾(しつきんご)と唐式で呼ばれていたことから、金吾という呼び名がついた。

「学園BASARA」では鍋同好会所属で鍋料理を提供するシーンが印象的であり、穏やかな性格で子供のような愛らしいキャラクターに描かれている。実際の金吾も子供時代は貧しい者に優しかったという史実から、それがアニメの金吾のイメージに映し出されたようである。

アニメでは苦手科目が体育という設定になっているが、実際は蹴鞠と舞の才などに秀でていたようである。ゲーム版(「戦国BASARA」シリーズ)でも蹴鞠と舞を合わせたような動作で攻撃をかわすプレイができる。

なんと彼は7歳で丹波(京都府)亀山城10万石を与えられ、10歳で従三位・権中納言に任命され豊臣姓を名乗るようになった。そんな恵まれた優等生のお坊っちゃまだったようだが、彼は後に波乱の人生をたどるはめになった。悲劇の武将明智光秀のかつて領地であった丹波亀山城が既にそれを示唆していたようだった。豊臣秀勝もこの城に住んでいたことがあったが、知行不足を秀吉に訴えたために左遷に遭ってしまった。なんとも不吉な城だった。




酒乱な結婚生活!?

1593(文禄2)年、秀吉と淀(秀吉の側室)との間に秀頼が生まれる。秀吉が唯一の実子に政権を継がせたかったため金吾は12歳で養子に出され、跡継ぎ候補にされていた秀次は謀反の疑いをかけられ切腹させられた。養子に出された金吾もついでに丹波亀山城を没収されている。

跡継ぎがいなかった毛利家の養子に出される話であった金吾だったが、小早川隆景(毛利輝元の叔父)の申し出により小早川家の姓に変わっている。同時期に毛利輝元の養女を正室に迎えた。翌年に筑前(福岡県)名島城30万7000石を相続させられ財には恵まれたが、道楽に走るようになってしまった。

酒に溺れ借金するまでの派手な生活をし、常楽会での乱暴行為もあったそうだ。他の女性との間に子供をつくったこともあり、結婚してわずか4年で毛利家から三行半をつけられている。

アニメやゲームでは毛利元就から金吾が足蹴にされるシーンがあるが、実際毛利家とは相性が悪かったようである。それにしても随分なイメージダウンだ。

関連動画
学園BASARA Blu-lay&DVDBOX発売CM Bパターン






勇敢な知将!?

1597(慶長2)年、そんな金吾であったが秀吉に命じられ朝鮮出兵に駆り出されていた。なんと総大将を任され釜山(プサン)で大活躍したのだ!加藤清正率いる軍が朝鮮兵に囲まれた際に、小早川秀秋の軍が駆けつけピンチを救った。総大将自らが先陣を切り敵の首を13も獲った。臆病なイメージとは大違いである!

だが勇敢で武将らしい戦いであったにも関わらず、石田三成からは総大将らしからぬ軽率な行動という手厳しい評価を下されてしまった。領地を越前(福井県)北ノ庄15万石へと大幅に減封を受けてしまう。

秀吉が亡くなった翌年の1599(慶長4)年、徳川家康の取り計らいにより金吾の領地は筑前名島城に戻され59万石に増やしてもらった。この時から既に、金吾の気持ちは傾いていたのであろうか。

「学園BASARA」でも金吾は石田三成のせいで割を喰うところがあったが、史実でも三成との因縁関係は深そうだ。アニメ最終話の生徒会選挙で選挙管理委員長を務める金吾は、西軍・石田三成よりも東軍・徳川家康に最後の一票(引き分けになる)が入ったことを嬉しそうにしていた。「優しい家康くん一票」というセリフが意味深である。

1600(慶長5)年、天下分け目の関ヶ原の戦いで西軍に就いていたはずの小早川軍だが異変が起こる!本戦が始まっても午前中は静観しており、一向に動く気配がなかった。その後、仲間だったはずである西軍・大谷吉継の軍へ攻めにかかる。大谷軍を討ち破っただけでなく、逃走した三成の居城であった佐和山城にも攻め入っていた。

西軍を裏切ったのは日頃からの憤りによるものなのか、家康の方が良くしてくれて勢力も強まっていたからなのであろうか。いずれにしろ、間に挟まれ複雑な心境での決意であったことだろう。

短命な最期!?




彼は筑前名島城に復帰した直後に農民保護対策を行うなど、家康から恩義を受けるようになってから慈善的な政策を進めるようになっていた。さらに東軍を勝利に導いたことで家康からは褒美として、岡山藩55万石を与えられ岡山城を改築し外堀を二重に増やした。

知行を割り当て農地の整備や寺社の復興に努めるなど、岡山藩主としても著しい働きを見せていた。

だが関ヶ原の戦いが終わった2年後の10月、満20歳という若さで亡くなってしまった。鷹狩りに行ってから体調を崩し、後日息を引き取ったそうだ。アルコール依存症による肝硬変が死因と推定されているが、大谷吉継や石田三成の祟りだとも言われている。しかも、同年同月に金吾の実の兄にあたる木下延貞まで原因不明で亡くなっていた。不可解な点が残るあまりにも早い末路であった。

恵まれていたようで波乱万丈な実に儚い生涯であった。だが史実を紐解くに連れて判明してきたことは、彼はけっして臆病でなく武将としても領主としても懸命に生きたということだ。不運なことや数々の粗相もあったが、子供から大人に成長していく男性としての大きな変化が短い生涯の中にたくさんあったのだ!

二次元のイメージとはかなりギャップがあり、主役よりも脇役にされがちではあるが歴史に名が残るだけの存在感はある。二次元だけでなく歴史上の人物としても、人々から親しまれるような魅力を秘めた武将だ!

(ふりーらいたー・古都奈 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像&動画 ©TBS animation / YouTube

参考サイト
小早川秀秋(戦国BASARA)【ピクシブ百科事典】
小早川秀秋-Wikipedia
小早川秀秋“天下の裏切り者” 歴史ゆっくり紀行公式ブログ
小早川秀秋(金吾、羽柴秀俊、豊臣秀俊)~関ヶ原では裏切るも、実は領民から慕われた武将 戦国武将列伝Ω
朝鮮出兵では大活躍?!少年時代の小早川秀秋はどんな感じだった? ゆるりと楽しく戦国時代!
「鍋奉行」とは?鍋料理のときによく聞く言葉|三人寄れば

関連記事

最近の投稿

プレスリリース

登録されているプレスリリースはございません。

ページ上部へ戻る